亀岡市の社寺仏閣等巡礼の足跡

2019/1/16   
丹波亀山城跡 丹波亀山城は織田信長の命を受けた明智光秀によって、丹波統治の拠点として築かれた城です。 「本能寺の変」の際に、光秀が出陣したのもこの城でした。山陰道の入口にあたる要衝であるため、豊臣秀吉や徳川家康にも重要拠点として活用されました。 家康は譜代大名である岡部長盛を入封させ、さらに天下普請により西国大名に命じ近世城郭として修築させています。 このときには築城の名手と謳われる藤堂高虎が縄張りを担当しました。現在、遺構はほとんど残っていません。天守台の石垣も積み直されたものです。唯一、城門(新御殿門)が千代川小学校に移築されています。 なお伊勢の亀山と紛らわしいので、明治になってからこの土地の地名を亀岡と改めることになり、城の名前も亀岡城とされました。この判断には1868年(慶応4年)の戊辰戦争で伊勢亀山藩は新政府側につき、丹波亀山藩は幕府側についたため、敗れた丹波のほうが改名させられることになったそうです。
                                 説明資料から

現在、ここは宗教法人 大本(おおもと)の聖地・天恩郷です。大正8年(1919)、荒れ果てて顧みるものもなかった廃城を大本の教祖・出口王仁三郎が入手、大本信徒の手で石垣を積み、樹木を植え現在の美しい景観が整いました。大本は明治25年(1892)、 京都府綾部市に全大宇宙の創造主・天御中主大神をはじめ、国常立大神、豊雲野大神ほか諸々の正しい神々を「大天主大神」として奉斉し、利己主義、弱肉強食の心を立替え立直し人間愛善、万教同根の真理に基づいて一身一家の幸福はもとより全世界の地上天国を建設することを目的としています。 亀岡の聖地「天恩郷」は大本の教えを説き広める神教宣布の中心地であり、綾部の聖地「梅松苑」とともに、大本の二大聖地の一つです。
                               案内板から

南郷地蔵 と 南郷池畔のエノキ

南郷地蔵
寛政5年(1793)の山陰丹府桑田亀山図に南郷という地名とともに地蔵として記され亀山城外堀に面して江戸時代から現代までエノキの大木に守られるように11体ほどの地蔵さんが祭られてきた。

南郷池畔のエノキ ・・・・・・   亀岡の名木
落葉高木。京都の里山や社寺の境内にきわめて普通に見られる木で、餌の木とも言われ小鳥が好んで食べ、糞とともに種子を落とし、各地で繁殖する一因となっている。日本では北海道を除く地域に分布し、朝鮮半島、台湾、中国にも分布する。この木は南郷池のシンボルとして、また神木として市民に親しまれている。
丹波亀山城外堀   今は南郷池と呼ばれる。
大本  手水舎
大本  万祥殿
丹波亀山城の石垣
大イチョウ
落葉高木。この木は光秀の手植えと伝えられ、市民の象徴的存在となり「亀岡音頭」にまで歌われ、また小説にも登場した名木である。しかし、初代のイチョウは江戸時代中期に台風で倒れ、若木を植え替えたとの記録が旧亀山藩士の家に残るという。 亀山城は明治初期に廃城となり、その後大正八年、大本が入手し聖地として大切に守られてきた。昭和10年官憲の弾圧・大本事件による神苑破壊をつまびらかに目撃した生き証人でもある。


丸岡城(余部城)城跡 この地は、古城と呼ばれる小高い平地で丸岡城の城跡である。現代でも「古城」、「古城浦」、「政所」などの地名、城跡周辺に寺院などの跡地が点在し「兵庫寺跡」・「宝蔵寺跡」、城の東麓に「元西岸寺」が残る。
丸岡城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のとき東軍の軍事的拠点としてである。戦国時代にはいると、天正(1573〜1592)年間、八上の波多野氏が丹波をほぼて掌中にし、その傘下にあった福井因旛守貞政が、この城を守り地域権力の拠点的城として使われた。 しかし、天正6年6月3日、織田信長の命を受けて丹波に進攻した明智光秀の軍勢が宇津根・雑水川・安行山の三方から丸岡城を攻めて、落城した。さらに勢いに乗じた光秀は八上城も攻め落として丹波を掌中にし、荒塚山に亀山城を築いた。
丸岡城の大手門は、この坂道あたりで天守閣は西岸寺のあたりとされています。
                               案内板から

今の西岸寺参道に立つ丸岡城跡石塔と西岸寺山門
西岸寺本堂
西岸寺山門
生涯学習施設・道の駅「ガレリアかめおか」
「ガレリアかめおか」内部は文字どおり屋根のある歩行者通路

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