三田市の社寺仏閣巡礼の足跡

2020/4/29  
東光山花山院(菩提寺)

三田市尼寺352
本尊 薬師如来
白雉2年(651年)、法道仙人による開基と伝えられる。後に、人皇65代天皇であった花山法皇が西国33ヶ所観音霊場を再興の後、当山を終焉の地とされる。境内には御廟所があり、西国札所別格霊場として尊崇を受けている。
境内からの眺望は素晴らしく「有馬富士 麓の霧は海に似て波かと聞けば、小野の松風」という御詠歌に読まれているとおり、その霧海は幻想的である。
なお、法皇を慕い、京から来た女官たちが女人禁制のため、尼となって山裾に住んだことから、この地を「尼寺(にんじ)」という。琴を弾いて法皇をおなぐさめした坂を「琴弾坂」と呼び、彼女たちの墓は「十二尼妃の墓」として祀られている。
                 説明板から転載

バス停の横から登山道に入る案内。   石塔には 「西国開山 」花山院御廟所」とある。
山門
仁王
仁王
花山法皇殿
薬師堂
七地蔵尊
花山法皇御廟所
歌碑   石段の蟻も見ている佛かな
歌碑   やまの鳥 木々のしげみに 啼ききほひ みささきの邊の すがしあさかも   


2020/4/29  
大川瀬 住吉神社

三田市大川瀬字曽根山1646
祭神   底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后

文永2年(1265年)建立は住吉社として県下最古で、三間社流造、桧檜葺の簡素な造りであるが、往時は東播から丹波地方へかけ摂津国住吉大社神領の中心的存在であった。
               三田市HPより
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。

鳥居
拝殿
本殿   国指定重要有形文化財。    三間社流造。  桧皮葺。 鎌倉時代。
外見は三間社になっているが、身舎内前通りで上座は4つに区切られており、住吉の神四柱を祀っている。側面は一間で庇(向拝)部分に前室を造るこのような流造は珍しい。墨書銘では内陣扉の「永享八年(1436年)三月廿四日」がもっとも古い。        三田市HPより
八幡社  大歳社 2枚の札が挙げられていた。
舞殿
県指定文化財   入母屋造。 茅葺。
本来は桁行1間梁間2間の舞殿として建てられた物に、隣接する長床を廊下で結んで橋掛かりとし、能舞台として使っている。舞台床は中央をやや高く盛りあげ、床下には大甕を埋めて音響効果が出るよう、そして背面を板張にして鏡板にしている。 創設年代は不明であるが、社記に「享保11年(1726年)舞堂修繕」とあり、柱が大面取りであることから江戸初期と考えられる。能楽奉納の始まりは寛文年間(1661年〜)からであると伝える                三田市HPより
霊社
祇園社
稲荷社

2020/4/21  
小野天満神社

三田市小野字森ノ本709
    
履屋の中に二社合祀されている向かって左側の社殿が、一間社流造、柿葺き県重要文化財である。
妻組・肘木・蟇股に、室町時代の建築様式を色濃く残している。  

大鳥居
拝殿はこの覆屋の中にある。向かって左側の社殿が、一間社流造、柿葺き県重要文化財である。
妻組・肘木・蟇股に、室町時代の建築様式を色濃く残している。  



2020/4/21    
光明山観福寺
真言宗大覚寺派

三田市川原字寺西433-1
観福寺の創建は舒明天皇12年(640)頃、天竺から紫雲に乗りこの地を訪れた法導仙人によって開かれたのが始まりとされます。平安時代以降、 当地の領主となった多田満仲から庇護され貞元元年(976)に大地震で伽藍が大破すると寛和2年(985)に再建、最盛期には当地地域の中心的な寺院として塔頭七坊を擁する大寺となりました。その後も歴代領主から庇護され、 天文10年(1541)の火災で焼失後には十倉城の城主森本備後守が再建、江戸時代には麻田藩4代藩主青木重矩が紺紙金字大般若経を寄進しています。古くから神仏習合し、延喜式式内社である高売布神社の別当寺として 祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院として独立しています。

山門
山門
本堂
空海立像



2020/4/21    
大覚山方広寺
黄檗宗

三田市末吉211
「花と石庭の寺」
黄檗宗で開山は満福寺木菴禅師。師に深く帰依した麻田藩主青木重兼が延宝7年(1679年)に創建し移り住む。
境内には京都竜安寺式石庭があり、本堂前のしだれ桜の古木は風情があり、重兼の墓所へ続く渓谷は四季の景観を深勝することができる。
また、前衛書家故上田桑鳩氏ゆかりの寺でもある。

ちょっと変わった山門。
山門から続く参道は生け垣に挟まれた長い道。
本堂  



2020/4/21    
無量山安楽寺
浄土真宗本願寺派

三田市鈴鹿228
    
多田満仲の四男 美女丸 法名 源賢 開基。
寛和2年(986)7月8日、真言宗天野山安楽寺 元亀元年(1570)織田信長により焼滅する。
延宝4年(1676)7月17日本堂柴宸殿を建て、延宝5年11月30日浄土真宗に転派、無量山安楽寺となる。

山門
本堂
鐘楼堂
親鸞聖人立像



2020/4/21    
高売布神社

三田市酒井120
    
古代から祀られ平安時代の「延喜式」に記載された式内社。中世には多田源氏の高平地区の惣社とされ、近世には摂津麻田藩領になり藩主青木氏の祈願所とされた。
拝殿上の京都宝鏡寺門跡尼より寄進された社号額には「正一位荷月大明神」と書かれており崇敬を集めていたが、江戸時代中頃幕府寺社奉行の命を受け延喜式内社を調べた儒学者並河誠所により誤りが訂正され、鳥居横に「高売布社」と刻まれた秦社号石が建つ。
本殿は檜皮葺一間社流造(国の重要文化財)、永正10年(1513)に再興上棟。草花を主題にした優れた彫刻装飾のある貴重な建築物。木造狛犬(国の重要文化財)はカヤの一木造で永仁5年(1297)の墨書がある。拝殿に奉納された絵馬は保存状態よく、三十六歌仙絵額、神功皇后遠征図、遷宮図など多彩である。
           

大鳥居
拝殿
戎神社の鳥居と本殿
神社の中に神社がある。  


 

2020/4/21  
式盧山大舟寺(だいしゅうじ)
黄檗宗 (おうばくしゅう)

三田市波豆川605-1    
当寺は黄檗宗(禅宗)であるがその始めは、人皇第参拾代敏達天皇の一阡弐佰年以前百済の僧日羅道者大舟山に修験道場として大悲尊像を安置し大船山式盧庵(別名舟寺)を創立した。 当寺は真言宗であった。今も参道の左側に拾弐基の町仏が残っている。大船山は霧深く湿気多く堂宇の荒廃いちじるしいので松尾谷に移すと言う古文書がある。延宝五年丁乙年(一六七七)慧林禅師の高弟子別伝禅師が今の勝地に移転本師唐僧慧林禅師を 招請して開山とし自ら第一代となって式盧山大舟寺と号した。後当山拾代宗弘禅師の代に本堂、庫裡、鐘楼、山門等を改築天明参年の棟板残る。昭和四年拾五代雪庵禅師庫裡を新築す。第拾七代箋俊禅師昭和四拾弐年本堂、同四拾六年山門、 同六拾壱年大東亜戦争中供出した梵鐘を再鋳復元した。本尊、聖観世音菩薩、木像立像(一.二米)、他に釋迦牟尼座像一体、開山慧林禅師像一体自然石高さ約六拾糎に、大舟山沙門空海筆印年号は破損して四年五月弐拾五日建と彫刻されている。
         説明板から転載

山門
山門から本堂へ続く参道を覆うように一本の大きな木はカヤ。  県指定文化財
根回り  7.6m    樹高  約20m
本樹は大舟寺創立の1677年の頃には、すでに門外に存在していたらしく、そのため樹齢約300年を超えるものとされる。その樹勢はいささかも衰えていない。三田市内で唯一の県指定天然記念物である。
                      説明板から転載
本堂
茅葺きの鐘楼。形も珍しいが、鐘が見えないのも珍しい。障子を取り外して突くのだろうか?
一陽来復     水墨画がユニーク。  


 

2020/4/21  
深谷山蓮花寺
真言宗 大覚寺派

三田市下槻瀬678
    
法導仙人開創。孝徳天皇の御代、今からおよそ1300年前に多田源氏の帰依を受けることに隆盛し、歴史的にも重要な文化財を保有する古刹として今に伝わります。
本尊の阿弥陀如来、脇仏(観音菩薩、地蔵菩薩)の3体は県の重要文化財に指定されております。山門も県の重要文化財に指定されており、豊臣家の寄進によるもので、織豊時代の荒木村重の乱に一度焼失したものを豊臣秀頼が再建したと伝えられています。

楼門(山門)
川原観福寺の門と同形式の単層仁王門であったところ、昭和63年の解体修理にあたって屋根下の木組みを検討した結果、創建時は2層の楼門であったことが確認されたので、原形に復元された。
縁腰組は三手先に組み、中備は間斗束、和様を基調に室町時代末の特色をよく残している。寺伝によれば戦国の兵乱に罹災、のち豊臣秀頼の命により片桐且元が再建したといい、また仁王像(市指定文化財)は観福寺と同様運慶作と伝えている。 なお正面上に掲げてある山号額は享保19年(1734)京都門跡尼寺宝鏡寺よりおくられた額である。               説明板から転載
楼門(山門)          入母屋造 茅葺 三間一戸八脚門
茅葺きが珍しくもあり、美しい。葺き直してまだ新しく見えたが、カヤ(茅)の手配も難しくなっていく中、ソフト(茅葺き技術)ともども保存していってほしい。
楼門に収められている仁王像(左の吽形力士)
頭上には鬘を、上半身は裸形、腰に裳をまとい、阿形力士は左手をふりあげて打ちかからんとする姿勢、吽形力士は右手指をいっぱい開けて押しとどめようとする姿、それぞれの行動に合致する実感のこもった顔と形につくられている。首から胸にかけて、 腕、脚や腹の筋肉のたくましさや腰布のひるがえりと深い襞は誇張されているが、写実的にみえる。寺伝によれば鎌倉時代の著名な仏師運慶の作と伝える。
楼門に収められている仁王像(右の阿形力士)
十三仏堂
鐘楼堂
ぼけ封じ観音
多宝塔
三田市近郊及び丹波・有馬地区で唯一の二重の仏塔です。当寺のシンボルであり、高さ20メートル。文化9年の再建立で本尊は釈迦牟尼如来と一願成就仏を安置しています。 雄大な羽束山を目前に多宝塔より望む眼下の景色は、あたかも一幅の古画を見るようです。
多宝塔
本堂



2019/10/9  
太栄山欣勝寺

三田市桑原
    
1228年、曹洞宗大本山永平寺の開祖・道元禅師が、この地を訪れたことを契機に、山の風景が中国の宋に似ていることから、太栄山と名付け曹洞宗に改宗された。その後、1556年改宗された。 

入口に立つ石塔
山門
本堂
井戸
市道に置かれた案内看板 : 部落名「桑原」に掛けて書かれていた。  


2019/5/22  
古城姫高稲荷
(ふるしろひめたかいなり)

三田市天神2-1-31
    
当地周辺は、江戸時代・寛永10年鳥羽より移封された九鬼氏の城館跡である。その他に九鬼氏以前より五穀豊穣のために祭られていたのが古城稲荷であったと伝えられる。
九鬼氏三田へ国替えのおり、一族の九鬼澄隆・隆姫の父娘が姫高神として、藩主によってその古城稲荷に併せ祭られ、以後、古城姫高稲荷と称せられるようになった。 
古城稲荷は当時城郭の一角にあったため一般町民の参詣は許されなかった。今日の古城姫高稲荷は廃藩置県後、放置されていた稲荷を明治初めに熱心な崇敬者たちが集まり、京都伏見稲荷大社の分社として豊作祈願・ 商売繁盛その他の守り神として造営し、その後幾多の変遷を経て現在に至っている。     説明板から 

赤い鳥居が美しい。

2019/4/15   
永澤寺(ようたくじ)

三田市永沢寺21
   ( 地名は えいたくじ ) 
宗派:  曹洞宗

開祖:  通幻寂霊禅師     

県道沿いに3門が並ぶが、最も駐車場側(東側)の「金鶏門」
県道沿いに並ぶ3門の中央に位置するのは、「勅使門」。茅葺き。この門の奥に山門が、さらに奥には本堂が一直線に並ぶ。
一番西に位置する「玉兎門」
山門(仁王門)。
山門(仁王門)の左側に立つ仁王
山門(仁王門)の右側に立つ仁王。手にする妙高持ち物が違うだけで後は左右対称。
金鶏門からまっすぐ本堂側に続く回廊。
妙高閣
本堂
不動明王
本堂の西側で咲き誇る花。

2019/4/11   
酒滴神社(さけたるじんじゃ)


 
    三田市藍本1057 

この辺りに疫病が流行ったとき、すさのおのみことを名乗った童のお告げがあり、酒が湧いていたので、飲んだら疫病が治ったので、この神社が出来たそうです。


鳥居
山門
金毘羅社
大歳社
惣領社
若宮八幡社
蝦子社

2019/4/11   
駒宇佐八幡神社
 
  三田市上本庄1221番地   

神社は約1200年の歴史があるとされ、宇佐神宮(大分県)の八幡神が空飛ぶ白い馬に乗って石清水八幡宮(京都府)へ遷座する途中で「この地にも祭るように」と神勅を下したのが創建の由来といわれる。

鳥居
参道
山門
長床
長床
舞殿と本殿。
舞殿
本殿
本殿
旧陸海軍人戦病歿者霊社

2018/10/8   
戎神社(えびす)
福島稲荷神社(ふくしまいなり)
所在地
      三田市福島

福島稲荷神社の由緒
当神社は穀物の起源神である保食神を奉祀奉祈し、産土神としては三田市内では唯一の稲荷神社である。
かって、村の東北東に位置する八幡山の字柴ケ谷に鎮座する八幡神社を産土神としていたが、安土桃山時代の天正年間(1573年から1591年)に村内の稲荷神社を産土神とした。
明智光秀の丹波攻めに際して、当村にあった光徳寺が青野村・青林寺と共に敵対する篠山八上城主・波多野秀治に兵糧を送ったため、これに怒った光秀が光徳寺を焼き払い、その時稲荷神社も類焼した。
そこで、八幡、稲荷の両社を合併して産土神としようとしたが、度重なる事故に会い、稲荷神社のみを旧社地の字赤江から字下龍王谷に移転して社殿を再建した。
江戸時代に至り、火災によって社殿を焼失したことから、元禄2年(1689年)正月に造営の談合をなし、六十余人の人々が力を合わせて資金を調達、同年12月に遷宮し造営が成ったとの棟札が残されている。また、神宮寺として世應山普門寺の名が見られる。
伝説として「毘沙門社、恵比寿社.厳島社、琴平社、大戚社、八幡社あり、当社を合わせて七社なり、これを俗に七福神とし、村名を福島と称した。」と村名の由来が伝えられている.。
 しかしヽ時の三田藩主が稲荷神社を除く六社の社殿を破壊し、神木を伐り倒して社地を開墾させ、藩の稲の種取り場とした。その後も社殿の再建を許さなかったので、村人は見るに忍びず相談のうえ各私有地に小祠を建て霊代を遷して私社として祭祀した。
 今も地区内に点在する各社は区民により毎年祭礼が執り行われている。本殿に残された棟札によるとヽ宝暦2年(1857年)に再建したこどがわかる。 さらに明治13年(1880年)に柿葺春日造の本殿を造営したが、昭和29年(1954年)九月の台風十五号により境内の老杉三本が倒れ社殿が全壊・円三十三年秋再建された。
 現在の社殿は、平成19年(2007年)5月に再建、引続き戎神社の完成を待って11月17日に正遷宮奉祝祭を挙行したものである。
                                  説明板より転載


奉献正一位稲荷大明神の幟がはためく。
鳥居
戎神社の本殿
福島稲荷神社の本殿
福島稲荷神社の本殿  横からの眺め

2018/9/26   
心月院


 三田市西山2-4-31

 三田藩主・九鬼家の菩提寺であると共に、白州次郎の墓があることでも有名です。     

心月院・山門
瓦葺、単層、平八妻切造、桃山時代
心月院・総門
四脚門に唐破風をつけた向唐門。軽快で豪放であり、兎毛通(破風の中央部)は桃山形式である。
本堂
心月院・経堂
内部に大般若経六百巻、念仏三味経、大蔵経、十六羅漢像等を蔵す。
九鬼家の墓
九鬼隆一の墓
白洲次郎の墓(右)と妻・正子の墓(左)
墓石には梵字が書かれているだけ。立て札が無ければ誰の墓とは分からない。
戻る トップページへ 練習日誌へ 記録集へ Maranicへ ぶどう栽培日誌へ 掲示板へ Linkへ