鉄鋼戦士の像 阪神尼崎駅前の北 |
尼崎が工業で栄えたことをたたえつつ、公害問題の解決を願うという「工都」の光と闇を象徴している。 |
右手にはハンマー。左手には何かしらの製作物を持つ。銅製の像がにらみつけてくる。50年前の1972年の設置。当時は工業都市を目指して活気があふれていた。しかし、パナソニックのプラズマディスプレー工場が閉鎖になって以降、明るい話題に欠ける。人口も西宮市に抜かれてしまった。 |
碑文 |
尼崎えびす神社 尼崎市神田中通3丁目82 |
阪神電車高架沿いにひときわ目立つ朱色の大鳥居は、高さ17m、笠木22m、柱直径1.6m。鳥居に掲げられている額面は畳3枚分の大きさで、その荘厳なる雄姿はまさに尼崎のシンボルとなっています。 |
尼崎の古名「琴の浦」発祥の祖神にして創建時代は不詳なれども伝説では醍醐天皇以前となっており菅原の道真公が筑紫の大宰府に赴かれる途中、風光明媚なこの浦に心引かれて当神社に御仮泊 『この地は殊の外より浦なり また松は琴柱の並びたつ如し』 と激賞されました。 案内説明版から |
大鳥居 |
社殿 |
社殿 |
高宝院稲荷 |
徳川将軍家零廟石灯籠 この石灯籠は、もともと江戸上野の徳川家霊廟にあったものです。 |
縁結びの神様として猿田彦大神と天鈿女命をお祀りしています。 |
縁結びの神様として猿田彦大神と天鈿女命をお祀りしています。 |
良縁開き道祖神 猿田彦大神は天孫降臨に際して日の神の使いとして先導の役割を果たした導きの神とされています。アメノウズメは天照大神の天の岩戸隠れに際し、天孫降臨にお供して、猿田彦と結婚し共に、宮廷神楽を奉仕した芸能の祖神とされています。二人の出会いと結婚は難事に立ち向かい運命を切り開く神として信仰されています。 案内説明版から |
大楠 |
貴布禰神社 尼崎市西本町6丁目246 |
貴布禰神社は「尼のきふねさん」で親しまれる尼崎屈指のお宮です。かつて尼崎城主のご祈願所を務め、たびたび雨乞いの神事が行われてきた市内唯一の元縣社です。 |
山城の国の貴船神社に「友正帝の頃、尊い神様が瀬戸内からは瀬戸内から尼崎に上陸され、京都の貴船川の川上に鎮まられた」と言う伝承があり、当社の旧地長洲がこれに当たると考えられる。 古来雨師風伯を主催され、天変地異を防ぐ御神徳をもたれる。江戸時代に現在地に移され、尼崎藩の御祈願所として祈祷を斎行し、尼崎の惣氏神として永年諸人の尊崇を受けてきた。 案内説明版から |
南側 大鳥居 と 南門(表門) |
手水舎 |
鳥居と社殿 |
社殿 |
白波稲荷神社 |
白龍社 |
市庭戎社 |
愛敬三社 可愛霊神(うまいのたまのかみ) 可美霊神(えのたまのかみ) 善哉霊神(えなにえのたまのかみ) 尼崎の |
富松神社(とまつ) 尼崎市富松町2丁目23番1号 |
富松神社は、約1250年前に僧の行基が人々を指導して、猪名野笹原を開拓し、稲作を進めるとともに、富松の里の守り神として神様と仏様をおまつりしたのが始まりと伝えられています。 平安時代には藤原摂関家の荘園を守る鎮守の社でした。戦国時代には数度の兵火にかかり社殿や堂塔は焼失し、面影はとどめませんが、樹木などに微かに昔時が偲ばれます。江戸時代に至り、尼崎藩主松平遠江守公厄災除祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇りました。大東亜戦争敗戦後は社会変化により神社の基盤は崩れましたが、人々のふるさと富松への信仰心は途切れることなく、里の人々に大切にされ、今日も神様への感謝のお祭りが続いています。 御本殿は1636年に再建されたもので、昭和43年に兵庫県重要文化財に指定されました。その御本殿を覆う社殿は昭和41年に造営され、平成28年には御造営50周年を迎えました。 from homepage |
鳥居 |
拝殿 |
御神木 大楠 |
尼崎城 阪神尼崎駅南 |
尼崎城は1617年(元和3年)に入封した戸田氏鉄によって築かれた城です。一国一城令後の築城であり、本丸には4重4階の天守が築かれるなど、5万石の大名には大きすぎる居城でしたが、これは幕府が西国大名の監視を命じていたためです。1635年(寛永12年)に氏鉄が大垣城へ転封となると、替わって入封した青山幸成によって改修されました。1711年(宝永8)以降は桜井松平氏が城主をつとめ、そのまま明治維新まで残ったのですが、1873年(明治6年)に廃城となっています。2015年(平成27年)、旧ミドリ電化(現エディオン)創業者の安保氏が私財を投じて天守を建設することが発表され、2018年(平成30年)11月に尼崎市に寄贈されました。現在は尼崎城址公園内で一般公開されています。 説明板から |
![]() |
![]() |
![]() |
大本山 本興寺 尼崎市開明町3丁目13 |
塔頭が六院ある(本教院、一乗院、恵運院、養寿院、本成院、尭運院)。 |
宗派 法華宗本門流 開祖 日隆 ご本尊 三宝尊 創建 1420年 |
山門 |
三重宝塔 |
方丈 |
鐘楼 |
本堂 1822年に焼失。1827年に再建。1962年外陣を改修 |
祖師堂 宗祖 日蓮聖人の御尊像を奉安、脇座に日登(三世)、日与(六世)、日締(十一世)、日承(十二世)、日堯(十三世)の各上人の木像が祀られている。 1822年に焼失したが、1852年に83世 日量上人によって再建された。 説明板から |
三光堂 もと大物浦にあったものを1620年現地に移したもので、拝殿は1597年豊臣秀吉、加藤清正再建である。 三光堂というのは、三光天子、鬼子母神、日本大小の神祇等の法華経信徒保護の善神を祀るゆえ名付けられた。細部の手法はなはだ巧みで、ことに草花彫刻をはめた幕股や木鼻の絵様彫刻、欄間の彫刻などは桃山時代の面目が躍動している。 その他の装飾にも、随所に精妙な毛刻を施した金具をはじめ、極彩色を施すなど善美をつくしている。 昭和27年、文部省によって解体修理、昭和60年に彩色の修理が行われた。 説明板から |
御霊水井戸 御開山日隆聖人、1420年当山総研の時、境内の乾の方向に井戸を掘られたところ清水がこんこんとして溢れ出て、水の乏しい尼崎住民の乾きを潤すこと数世紀、市政上水道完備の大正5年まで、市民の飲料に供された。如何なる炎天にも不増不滅の霊水として、今なお世人の崇敬するところである。 説明板から |
開山堂 重要文化財 |
日隆聖人荼毘所塚 日隆聖人は寛正5年(1464)2月25日御年80にてご入滅、同29日に荼毘に付された。この塚は妙光寺に祀られていたが、昭和38年同寺が難波に移転の折、当山が譲り受けたもので、古来より荼毘所塚と伝えられている。 |
瑞雲山廣徳寺 尼崎市寺町8 |
1390年(明徳元)現在の大物町に開創されたといわれています。戦国時代、室町幕府の実権を握っていた細川家の後継者争いからはじまった合戦で、大敗した管領細川高国は捕えられ廣徳寺で自害しています。その時の合戦は「大物くずれの戦い」と呼ばれ、
現在の東大物町に石碑が建てられています。その後荒廃しましたが、1558~70年(永禄年間)に、隣接していた栖賢寺とともに寺院を再興しています。その時の寺領は、豊臣秀吉から与えられたと伝えられています。また、徳川二代将軍秀忠の朱印状には寺領30石と記されている由緒ある寺院です。
1615年~1624年(元和年間)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を築城する際に、現在の寺町に移転されました。 1582年(天正10)山崎の合戦前に豊臣秀吉が禅寺を求めて廣徳寺で休息を取った話や、明智光秀の軍勢に襲われた豊臣秀吉が、廣徳寺に逃げ込み、髪をそり落として僧と一緒に台所で味噌をすって追っ手の目を欺いた「味噌すり坊主」の逸話が伝えられています。その時のすり鉢とすりこ木は廣徳寺に 残されています。また、歌舞伎の演目「絵本太功記 尼崎の段」の舞台や、豊臣秀吉公画像、朱印状、寺領目録などが残されるなど、豊臣秀吉ゆかりの地としても有名です。 |
宗派 臨済宗 開祖 言外宗忠 ご本尊 釈迦牟尼仏 脇仏 創建 1390年 |
山門 |
本堂 |
甘露寺 (かんろじ) 尼崎市寺町6 |
甘露寺は室町時代、円誉上人源永が開いたと伝えられています。元は大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転しました。本堂は貞享4年(1687)に15世寂誉上人によって中興され、 江戸時代中期の質素で優雅な浄土堂が建立されましたが、平成3年(1991)旧本堂のイメージをとどめて改築されました。 |
宗派 浄土宗鎮西派 開祖 円誉上人源永 ご本尊 阿弥陀仏 創建 1687年 |
山門 |
本堂 |
月峯山大覚寺 (だいかくじ) 尼崎市寺町9番地 |
現存する尼崎最古の名刹で律宗の寺院です。本堂以下の建物は明治10年の大火で焼失し、再建されたものです。寺伝によれば推古8年(600)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長洲の浦に造らせた 寺と伝えられています。中世の古文書(県指定文化財)が保存されています。中世の大覚寺の場所は、現在の南城内から東本町4丁目あたりで、残された絵図によれば寺内には市庭(場)が設けられ住民の公共施設としての機能も果たし、宗教だけでなく政治・経済・文化全般にわたる中心になっていたことが分かります。 |
宗派 律宗 開祖 日羅 ご本尊 千手十一面觀音 創建 605年 |
山門 |
本堂能舞台 |
能「芦刈」を演じるからくり人形を収容する芦刈からくり堂 世阿弥作の能「芦刈」は、貧しい芦売りに身を落とした男が、都に去った元の妻と再会する物語です。江戸時代の名所案内である「摂津名所図会」は「大和物語」を引いて夫婦の悲話を紹介しながら、その舞台となった大物あたりの芦刈島の様子を描いています。 猪名川・神崎川に繁茂する芦の風情が古くから都に伝わり、文学にも描かれたのでしょう。河口近くの風情は「浦の初島」とも呼ばれ、多くの古歌に詠まれている。 案内板から |
薬師如来堂 |
薬師如来 |
大尭山長遠寺 (じょうおんじ) 尼崎市寺町10番地 |
長遠寺の「大堯山縁起」によれば、観応元年(1350)日恩上人の開基と伝えられています。市場巽(現在の東本町)から尼崎城築城に際して現在地へ移転しました。本堂と市内では唯一の多宝塔は、桃山時代の特徴がよく表れた建物(国指定重要文化財)、 客殿・庫裏・鐘楼の三棟は江戸時代前期の建造物(県指定文化財)です。兵庫県南部地震により大きな被害を受けたため3年をかけて修復工事が行われました。 |
宗派 日蓮宗 開祖 日恩 ご本尊 題目宝塔、多宝如来、釈迦如来 創建 1350年 |
山門 |
本堂 |
妙見堂 |
鐘楼 |
多宝塔 |
珠光山徧照寺如来院 尼崎市寺町11番地 |
今から1300年昔、行基が聖武天皇の厄除けを祈願して、神崎(尼崎市神崎町)に釈迦堂を建てたのが始まりです。 800年昔、法然上人が訪れた後、釈迦堂は洪水によりご本尊(釈迦如来)並びに堂宇が消失しました。法然上人の阿弥陀信仰が流布し、阿弥陀如来をご本尊として再建され、如来院と名を改めました。法然上人を改宗開山上人と仰いでいます。 戦国時代に、尼崎城(尼崎市大物町)が築城され、如来院は大物に移転されました。 江戸時代、現在の地(尼崎市寺町)に移りました。 |
宗派 浄土宗 開祖 行基 ご本尊 阿弥陀如来 創建 天平年間 |
山門 |
本堂 |
鐘楼 |
十劫山専念寺 (じっこうざんせんねんじ) 尼崎市寺町12番地 |
寺伝によれば、初め、1177(治承元)年、法然上人に深く帰依していた平重盛(清盛の長男)によって、神崎川の河口の東長洲に建立されました。開山にあたっては、法然上人の高弟の西仙房心寂を招いたと伝えられています。 しかし、わずか2年後の1179(治承3)年に重盛が亡くなり、残された当寺は、その直後、朝廷より、重盛の菩提を弔う寺(菩提所)とされました。また、内大臣まで務めた重盛の生前の功績により、朝廷より堂舎への丹塗り(朱塗り)を施すことを許されました。これが当寺の赤門の由来です。 やがて、戦国期の1580年頃、天誉滴翠(てんよ てきすい)上人が復興し、その時に京都の知恩院の28世浩誉聡補(こうよ そうは)上人より、正式に「専念寺」という寺号を授けられました。 この天誉上人は、1583(天正12)年、豊臣氏の大坂城下の松江町に一寺を建立し、同じく専念寺としました。この寺は後に徳川氏の大坂城下町建設時に天満東寺町へ再移転しました。現在も東天満(大阪市北区同心町)にあります。 現在地へは、江戸初期の1617(元和3)年、尼崎藩主戸田氏鉄(うじかね)による尼崎城及び城下町の建設にあたり、寺町寺院群の中で最も西端に境内地をもらい、東長洲より移転しました。 パンフレットから転載 |
宗派 浄土宗 開祖 平 重盛 公 ご本尊 阿弥陀如来 創建 1177年 |
山門 |
本堂 |
全昌寺 尼崎市開明町3-11 |
寺町で唯一の曹洞宗の寺院。戸田家の菩提寺として現在の滋賀県大津市に建立されましたが、元和3年(1617)戸田氏鉄が尼崎藩主として尼崎へ所替えの際、随伴した僧、雪山呑秀和尚によってこの地に再興されたものです。
開基は、戸田甚五郎と伝えられています。また、曹洞宗の本山である総持寺(神奈川県)の輪番地寺院としてたびたび禅師を送り出した名刹です。文政5年(1822)出火の際に貴重な記録類をはじめ多くの品々が焼失しましたが、山門、鐘楼堂、本尊釈迦如来像、
月舟宗湖筆の観音堂扁額、十六羅漢、魚籃観音像、涅槃図は焼失を免れました。檀家には尼崎藩旧松平家の家臣も多く、漢学者の豊島成温、内田頼重らの墓所としても知られています。鐘楼堂は阪神・淡路大震災で被災し、再建されました。 案内板から転記 |
宗派 曹洞宗 開祖 戸田甚五郎 ご本尊 釈迦如来 創建 慶長年間(1596から1615)年 |
山門 |
本堂 |
鐘楼 |
魚監観音堂 |
![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() |