みちのく東北Tour



1日目  2024/9/30  
2日目  2024/10/1 


2024/9/30(月)

    
伊丹空港→仙台空港→立石寺→銀山温泉→鳴子温泉(泊)
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。


立石寺
当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。
当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えましたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もありましたが、江戸期に千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備されました。元禄二年(1689)には俳聖松尾芭蕉が奥の細道の紀行の際この地を訪れ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の名句を残しました。
現在は約百町歩(33万坪)の境内を持ち、その中に大小30余りの堂塔が残され、三つの不滅(法灯・香・写経行)が今尚護られています。
根本中堂
根本中堂
山寺日枝神社
鐘楼
山門
弥陀洞
弥陀洞
仁王門
仁王   運慶の弟子たちの作
仁王   運慶の弟子たちの作
金乗院
中性院
鐘楼堂
三重小塔
明治41年9月18日、当時の東宮義仁親王(後の大正天皇)が山寺に行啓された際の御休息所
五大堂
納経堂


銀山温泉
タイムスリップしたかのようなレトロな景色が広がる銀山温泉。銀山川の両岸に木造の温泉旅館が立ち並ぶ温泉街では、夕暮れになるとガス灯に火がともり、ノスタルジックな日本情緒が漂います。さながら映画「千と千尋の神隠し」の舞台のよう。国民的ドラマ「おしん」の撮影地としても知られています。
白銀の滝
落差は約22m。飛沫をあげながら勢いよく流れる滝と、糸のように細く繊細な流れの滝の大小2本に分かれており、時期によっては3本に分岐しているように見えることもあるのだとか。
白銀の滝



2024/10/1(火)

    
鳴子温泉→鳴子峡→平泉・中尊寺→松島→五大堂→仙台空港→伊丹空港→→→

行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。

鳴子峡
鳴子峡は、地盤の隆起運動とともに、、大谷川の浸食で刻まれた深さ100mにも及ぶ大渓谷です。弁慶岩や夫婦岩などの奇岩奇岩石が連なり断崖絶壁と渓流が織りなす景勝の地として昭和36年には、宮城県の名称に指定されました。晩春や初夏は匂い立つ眩いばかりの新緑、秋には真っ赤に染まる紅葉に覆われその眺めはまさに絶景です。
大深沢橋
大深沢橋

平泉・中尊寺
讃衡蔵
讃衡蔵は奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められております。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を今に伝えます。
讃衡蔵
これだけが写真可
大長寿院
旧鐘楼
康永二年(1343)、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。撞座は長い歳月にわたる打鐘により窪み、今この鐘が撞かれることはめったにないことである。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料でもある。径86㎝。
本堂
鐘楼堂
本坊表門
本坊表門
観音堂
地蔵堂
月見坂

松島海岸
日本三景碑

松島・瑞巌寺 五大堂
「瑞巌寺」から少し離れた小島に建っている仏堂が「五大堂」だ。807年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北征討で訪れた際に「毘沙門堂」を建立。828年に慈覚大師・円仁が五大明王像を安置したことで「五大堂」と呼ばれるようになった。現存している「五大堂」は、1604年に伊達政宗によって再建されたものだ。「五大堂」は東北地方にある最古の桃山建築とされ、国の重要文化財にも指定されている。「五大堂」の軒回りには方位に沿って十二支の彫刻が配置されており、お堂を1周すれば全ての干支が眺められるようになっている。



瑞巌寺
瑞巌寺は東北でも有数の禅寺であり、伊達政宗ゆかりの菩提寺だ。
800年の初めに比叡山延暦寺を統括する、慈覚大師・円仁(じかくだいし えんにん)が創建した「天台宗延福寺」が前身と言われている。現在の瑞巌寺は1609年に伊達政宗が5年の歳月をかけて完成させたもの。正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」という。伊達政宗は、関ヶ原の戦い後に仙台城の築城と併せて、領民の精神的な支えの場として積極的に神社仏閣の造営を行ってきた。その流れで建てられたのが瑞巌寺だ。背景には禅僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)の強い勧めもあって、寺の復興を思い立ったという。虎哉宗乙とは伊達政宗の教育係で、伊達政宗にとっては幼いころから助言を受けていた恩人ともいえる存在だ。伊達政宗の思い入れが込められた「本堂」や「庫裏」は400年もの間、一度も火災に遭遇することがなく、現存している。
山門
参道
洞窟遺跡群
洞窟遺跡群
洞窟遺跡群
洞窟遺跡群

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