白浜_海岸周遊  


2020年1月30日     新大阪⇒(近畿自動車道・湾岸線 阪和自動車道)⇒白浜温泉・ホテル千畳〜三段壁〜千畳敷〜崎の湯〜ホテル千畳

2020年1月30日     ホテル千畳〜白良浜〜熊野三所神社〜南方熊楠記念館〜ホテル千畳


2020/1/30

新大阪⇒近畿自動車道・湾岸線 阪和自動車道⇒白浜温泉・ホテル千畳〜三段壁〜千畳敷〜崎の湯〜ホテル千畳 



阪和自動車道・紀ノ川サービスエリア から和歌山市街地や紀の川を望む。
三段壁手前の庭園   巨大なアロエ  花が咲いていたが、花を見るのは初めて。

三段壁洞窟 和歌山県西牟婁郡白浜町の熊野枯木灘海岸県立自然公園内にある[1]景勝地・三段壁の地底36mに広がる海蝕洞で、源平合戦で知られる熊野水軍の舟隠し場の伝承が残る史跡でもある。        from   WIKI

吉野熊野国立公園 三段壁
三段壁
三段壁
三段壁
どこにでもある「恋人の聖地」
三段壁洞窟
三段壁洞窟
三段壁洞窟
三段壁洞窟
三段壁洞窟
牟婁大弁財天横で湧く  秘湯「湧泉洞」
湧出しているのは温泉です。  「 しおさいのいで湯の香り うるわしき 」
日本一大きい牟婁大弁財天(水の神)
瀬戸鉛山鉱山 由来
瀬戸鉛山鉱山は白浜町三段地域に正親町天皇の開鉱されたと伝えられるれ、この鉱山は数十ヵ所にも及ぶ竪鉱で構成、特に、天文12年8月鉄砲伝来以降、銃弾に用いる鉛の需要が増大するようになった。 祇園南海の亨保18年(1733)の「鉛山紀行」に「金杭数十有り、鉱を開きて百年鉱脈海に入りて中止と聞く鉱砂礫移々、皆銅珀を挟み、今尚歳、銭若干を出し以って船貢に充つと言う」慶長ごろ大いに衰え程なく中止になったのであろう。 これがはっきりしないが「御用留」安政五年(18757)6月8日の条に、鉛山村庄屋の「善右衛門申候は二百年来山は相休み御座候得共、今以て握り姿にて年々鉛運上を貢に仕り候言々」16世紀末から17世紀前半にかけて浅野氏や 南紀徳用氏が鉛山に注目し、しばしば租税を免じて躍起となって採鉱を奨励していた。これはその頃の様子を再現したものであります。町には租税書が今も残り温泉神社の秋の祭礼には「御書祭」といって租税書を先頭に羽織袴の長老に続き稚児行列が賑やかに進むのは、当時をしのばれます。    案内説明板から



千畳敷 新第三紀層の砂岩からなる、太平洋に面したスロープ状の岩盤である。砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を形成している。
その広さはおよそ4ヘクタールで、畳を千枚敷けるほどの広さであることが名前の由来である。三段壁・円月島 と並び、白浜町の景勝地として知られている。
この場所から望む夕日の美しさは有名で、広大な太平洋へ夕日が沈む光景は「日本の夕陽百選」にも選ばれている。
        from    WIKI

千畳敷
千畳敷
千畳敷
千畳敷
千畳敷
千畳敷
千畳敷


崎の湯近くにあった記念碑:行幸芝
この記念碑一帯の台地は、学名「行幸芝」と呼ばれ、飛鳥時代に斉明天皇が湯治のため滞在された「行宮跡」(あんぐうあと)があった所です。日本書記によると、斉明4年(658)10月18日に 斉明天皇は、前年、甥の皇子が風光明媚なこの地で過ごし、自然に湧出する温泉により病もすっかり快復したと語る話に心をひかれ、皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)等を伴って海路行幸され、翌年正月3日に帰京されるまでの約2ヶ月半、この行宮で滞在されました。
この間、都では、有間皇子が皇位継承の渦に巻き込まれ、謀反の疑いをかけられて捕らわれの身となり、天皇の滞在するこの行宮にて、中大兄皇子の厳しい尋問を受けられました。 その後、謀反の疑いが晴れぬまま有間皇子は、都に帰ろうとしたのですが、帰る途中、藤代坂(現在の海南市)で絞首刑となり、19歳の若さで命を落としたそうです。
皇位継承の渦に巻き込まれた悲運の皇子として、現在も語り継がれています。今はただ、この碑が白浜の海を見下ろし、ひっそりと往時を偲んでいます。
                            案内板から転載


2020/1/31

ホテル千畳〜白良浜〜熊野三所神社〜南方熊楠記念館〜ホテル千畳 
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。



白良浜 延長620mの遠浅の浜。90%の珪酸を含む石英砂は、文字通り真っ白でサラサラの砂。夏にはカラフルなパラソルが咲きみだれ、弧を描く浜辺にそって並ぶ椰子の葉パラソルが、トロピカルムードをより一層盛り上げています。

この白い砂浜。実はオーストラリアからの輸入品だそうだ。
砂が風で飛ばされてやせ細るのを防ぐための防風ネット
この碑は、ボクシングの元世界チャンピョンの井岡弘樹さんが、2003年11月に白浜町に寄贈された碑
エディ・タウンゼント氏は、藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、そして井岡弘樹の6人もの世界チャンピョンを育て、1988年、癌のため73歳で 亡くなられたことが刻まれています。そして、ハワイホノルル生まれのエディ・タウンゼント氏は、こよなく白良浜を愛し、世界タイトル戦に向けたキャンプ地は、いつも白良浜であったことも刻まれています。
寂念法師の歌
雪のいろに おなじしららの はまちどり こゑさへさゆる あけぼののそら
西行法師の歌碑
波よする しらゝの濱の からす貝 拾ひやすくも おもほゆる かな


熊野三所神社

海岸側の鳥居   名前の割に寂れた神社と思いましたが、裏口でした。
表側の大鳥居
更に進んだところにあった鳥居
本殿
本殿正面
火雨塚古墳(ひさめづかこふん)


円月島
道路脇の砂岩でできた大きな崖。

南方熊楠記念館 南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。植物学・菌類学者としてのみならず、民俗学の創始者、19才から14年間アメリカ、イギリスなどへ海外遊学、 10数ヶ国語を自由に使いこなし、国内外に多くの論文を発表し、日本に「ミナカタ」ありと世界の学者を振り向かせました。天文学、鉱物学、宗教学などにも多くの足跡をのこしています。生涯在野の 学者に徹した熊楠の活動・研究範囲は非常に広範囲にわたり、現在も全容が解明されておりません。
没後、遺族からそのいくつかの資料の寄贈を受け、南方熊楠の遺した偉大な業績と遺徳をしのびその文献、標本類、遺品等を永久保存し、一般に公開するとともに博物学の巨星を後世に伝え、学術振興 と文化の進展を目的として昭和40年4月に開館しました。その後、新館建築工事を平成27年11月から実施し、平成29年3月19日にオープンいたしました。

南方熊楠記念館入り口。記念館は番所山公園内にある。公園は小高い山で、先端の岬には灯台もある。
歌碑   雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
熊楠記念館の屋上から景色
熊楠記念館の屋上から景色
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