熊野古道 大辺路  

大辺路は紀伊田辺から串本を経て那智駅までを海岸沿いに結ぶ参詣道で、海沿いに延長120数kmあります。
海沿いと言っても、標高700m余りの峠もあり、富田坂(とんだざか)、仏坂、長井坂などが知られています。


2019年4月23日     周参見駅〜仏坂の茶屋跡〜紀伊富田駅〜紀伊田辺駅              42.0km
2019年4月22日     古座駅〜串本駅〜串本海中公園〜周参見駅                    52.2km
2019年4月21日     紀伊勝浦駅〜ゆりの山温泉〜二河峠〜浦神峠〜紀伊浦神駅〜古座駅    31.3 km
2017年9月 6日     串本駅〜紀伊大島〜潮岬〜串本駅                          15.7 km


2019/04/23   

周参見駅〜仏坂の茶屋跡〜紀伊富田駅〜紀伊田辺駅    42.0km
  
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周参見駅前に広がる海。  リゾートマンション「ヒューコーストすさみ」が大きく見えるが、果たしてどれだけ入っているか?疑問。
萬福寺
熊野曼荼羅画 第31番 安養山萬福寺。禅宗臨済派、京都妙心寺の末寺で、ご本尊は阿弥陀如来像です。
また「周参見村郷土誌」には、寛永14年(1637年)京都、高峰和尚が開基し、享保年間に火災により消失、第八世寛道和尚が、天明元年(1781年)本堂を再建しました。寛政4年(1792年)に長沢芦雪が、串本の無量寺からの帰途、障壁画16本に画す。と記載されていますが、現在は行方が知れません。東泉庵(後庵)山本家に子犬の絵が、1枚残るのみだそうですが長沢芦雪ゆかりのお寺です。
                                  説明板から
萬福寺
萬福寺  熊野曼荼羅
萬福寺 鐘楼
萬福寺 開運妙見殿
周参見代官所、奉行所 所在地跡
周参見王子神社
王子神社には、数十点の絵馬が奉納されています。中でも30点余の船絵馬からは、稲積島の浮かぶ天然の良港、周参見港が荒海の熊野・枯木灘を行き交う浪速・江戸航路の中継地・避難港として栄えていた当時の様子を伺うことができます。
地主神社
ここは「ジノシさん」と呼ばれ、入谷地区の神社として古くから祭られているが、社殿がないのが特色である。背後の巨岩を含めた森全体が神体とされていたようで、それはいまも祭壇の中央に立つ神木のサカキによって象徴されている。熊野地方には、神は大樹や巨岩に宿すとする素朴な自然信仰から、社殿を設けずに祭るとこがすくなくなかった。各地にあった矢倉神社などがそうで、この地主神社もそれと変わりがない。しかし、このようにいまも残っているのは全く珍しい。       説明板から
川沿いに続く道を登ってゆく。
林道を登ってきてここが峠。
峠からアスファルト道を離れ山道に入り、下っていく。
仏坂 茶屋跡
この茶屋は昭和初期(昭和13年頃か)まで営業していたようである。ただし、江戸時代においては臨時的に設営されたもので、明治時代以降に人々の通行が多くなって以降に、常設の茶屋へと変化していったらしい。また現在はすさみ町への林道拡幅工事で様相は変わってしまっているが、かっては古道沿いに広場があり、そこでは大正3年(1914年)から紀勢西線が開通した昭和10年(1935年)まで、毎年偶数月に牛市が開かれていた。この牛は「安宅牛」と呼ばれ近隣の農家から持ち寄られた牛の売買で賑わったという。                       説明板から
杉林の中を熊野古道は続く。
桂松跡
江戸時代において紀行文中にその名が散見され、古くから知られていたようである。元禄2年(1689年)の「紀市郷導記」に「カツラ松の坂」、寛政年間の「熊野巡覧記」には「峠に桂松有り」としている。また、「熊野街道沿村取調私記」では「かつら松、一里塚松の内」と記され、桂松が一里塚の松とされていたことがわかる。ちなみに和歌山から25里(約100km)の距離である。桂松の名は、その上部がカツラを被ったような形をしていたからだと伝えられている。              説明板から
日出神社 
日出神社  相生クスノキ  (天然記念物)
クスノキは、関東地方南部以西、四国、九州、朝鮮半島、済州島に分布している常緑高木である。日の出神社境内に位置しており、ひとつの根元からふたつの幹が生育しているため、相生クスノキと呼ばれている。樹齢約700年、幹周がそれぞれ5.8m,4.9m、樹高が20mを超えている。
                       説明板から
日出神社 本殿
正光寺
正光寺 本堂
正光寺 鐘楼
正光寺 慈光堂
法然上人 (幼名 勢至丸) の像 
法然上人 坐像
シガラミ磯
前弧海盆に堆積した田辺層群上部層の砂岩泥岩互層が織りなす絶妙な縞模様が印象的です。おもに潮流や波浪により砂などが運ばれて形成された堆積構造が発達し、浅海で堆積した地層の特徴を観察することができます。また、生痕化石も見られます。          説明板から
猿橋
日神社
創建以来、社領を多く抱え、繁栄を誇っていたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐により、多数の社殿が焼失して衰退。明治時代の神仏分離により、社号を「日神社」に改称して、現在に至る。
日神社 拝殿
日神社 合祀社
日神社 本殿
日神社
平間神社 鳥居
天佐具女命を祭神として、又、摂社には家内安全の守護神である大宮能売神を祀り、更に昭和56年11月23日、商売繁盛の恵比須神を併せ祀る。
平間神社 本殿
大日如来堂
保呂の虫喰岩
この岩壁は田辺層群上部層の厚い砂岩と礫岩の地層からなり、礫岩の部分に「虫喰い」風化がよく見られます。岩壁には多数の凹みが蜂の巣状に密集しています。この蜂の巣状の風化はタフォニと呼ばれ、地層中の塩類の溶解と析出によってできたと考えられています。        説明板から
保呂の虫喰岩
櫟原神社に向けて 橋をわたる。
山王橋は潜水橋。  沈下橋とも言うが、増水時に水面下に潜るため、欄干がない。実際に渡ってみると少し怖かった。
櫟原(いちはら)神社
旧諏訪神社、梅田神社、厳島神社、岩崎神社の4社を合祀
櫟原(いちはら)神社   本殿

2019/04/22   

古座駅〜串本駅〜串本海中公園〜周参見駅    52.2 km
  
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橋杭岩
串本から大島に向かい、海中に約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っています。その規則的な並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付きました。 海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、 あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっています。 吉野熊野国立公園地域にあり、国の名勝天然記念物に指定されています。               案内説明板から
橋杭岩    
橋杭岩
橋杭岩
橋杭岩
潮岬を望む。   山の上に見えるのはHotel & Resorts WAKAYAMA-KUSHIMOTO
部屋数は252の  3.5つ星のホテル
無量寺      
串本町にある虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院。もとは、串本西海岸の袋地区にありましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。 その後、無量寺の再建の使命を帯びた文保愚海和尚が入院し、天明6年(1786年)、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。             案内説明板から
無量寺 山門
無量寺 鐘楼堂
無量寺 霧島ツツジが咲き誇っていた。
無量寺 本堂
無量寺 観音堂
無量寺 慈光納骨堂
正面左右両方に摩訶般若波羅蜜多心経が掲げてあった。
無量寺 
お経を一人に一文字づつ石板に書かせて、記名したものを順に並べて掲げてあった。
無量寺 納経塔
串本海中公園
串本海中公園のウミガメ
徳本上人碑
徳本上人碑
道標    JR紀伊有田駅方面から来て、飛渡谷道 に抜けた。
飛渡谷道
「熊野巡覧記」に「此処、石灰を焼業とす」とあり、「此処」とは有田・田並地区のことで、「石」とはサンゴを指し、「灰」とはサンゴを焼いて出来る「漆喰の粉」のことである。1750年の「苫草場争論」に「灰方」としていた記載があり、 「灰窯」でサンゴを焼いて漆喰を製造し、紀州藩に出荷していた。和歌山城の白壁の漆喰はこの海岸で焼かれたものと地元では言い伝えられている。 1870年7月8日、日本最初の石造り灯台として点灯した樫野崎灯台や8年後に石造りとして改築された潮岬灯台の白亜はここの海岸で焼かれた石灰が用いられている。             案内説明板から
道標       JR紀伊有田駅方面から来て、富山平見道に抜けた。
徳大明神社  鳥居
徳大明神社  本殿
江田海岸
江田海岸        折れ曲がった地層
江田海岸では、ぐにゃぐにゃに曲がった地層を見ることができます。これは、今から約5000万年〜2000万年前に深い海の底に積み重なった砂岩や泥岩が、その後に大きな力を受けて折れ曲がったものです。これを褶曲と呼びます。              案内説明板から
江田海岸        折れ曲がった地層
江田海岸        折れ曲がった地層
双島
サラシ首層
大小の岩が散在しています。近づいてこれらの岩をよく見ると、転がっているのではなく、地面とつながっています。
サラシ首層のでき方には、いくつかの説がありますが、その一つが海底土石流です。これは、海底の斜面が崩れて、礫を多く含んだ土石流となって流れ下り、緩やかな海底斜面にたまったと考えられています。 その後、陸地になり、波によって柔らかい部分が削られ、硬い部分が岩のように残ったという説です。                           案内説明板から
田子駅前の道標。駅前の道を、富山平見道から来て新田平見道方面に抜けた。
上品寺  石段参道
上品寺  本堂
上品寺  鐘楼
縞模様の岸壁
この付近の海沿いの崖には、色や厚さの違う岩の層が交互に積み重なって縞模様になっている場所があります。これは、大昔に海の底で起こった土石流を記録した岩であり、このような地層を「タービダイト」と言います。             説明板から
縞模様の岸壁
江須崎島への遊歩道
江須崎島   遊歩道横の岩に見える縞模様
黒潮がもたらした暖地性植物群落
江須崎は、小さな水路に隔てられた島になっています。島の周囲は崖(海食崖)で囲まれ、島の中にはかって海底だったところが隆起した平らな地面があり、海岸段丘となっています。海底であった頃の名残りの丸い小石を春日神社の切通しの壁で見ることができます。           説明板から
江須崎島にある春日神社
江須崎島にある春日神社
日本童謡の園    うみ
日本童謡の園  みかんの花咲く丘
日本童謡の園  七つの子
日本童謡の園   おはながわらった
日本童謡の園   鳩ぽっぽ
延命地蔵尊
昔の江住村と和深村の境界の磯にある洞窟を根城に住んでいた伝次が権八という子を連れた母たまと同棲していた。たまの死後、権八が十歳ぐらいの時、母を慕い日夜泣き叫ぶので、権八は伝次を釣りに連れて行くふりをして、此の崖から突き落として死なせた。所詮まま子殺しとして伝わっている此処へ、哀れな権八の供養に建てたお地蔵さんである。             説明板から
周参見  夕日が美しい。

2019/04/21   

紀伊勝浦駅〜ゆりの山温泉〜二河峠〜浦神峠〜紀伊浦神駅〜古座駅    31.3km
  
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国道42号線を渡り勝浦観光ホテルに向かう。大辺路は紀伊田辺に向かって、原則的には海岸線沿いを辿るのでこの国道42号線を何度も渡る。
勝浦観光ホテル内の駐車場を突っ切って、山道に入っていく。
駿田(するだ)峠
駿田峠は、那智勝浦町の中部、湯川地区に位置する峠である。西側の国道から100mほど歩き小川を渡るとよく遺った古道が現れる。さらに、緩やかに東進していくと駿田峠に出る。笹ノ子池を左手に古道を上ると、途中石造地蔵が建っているが、由来は不明である。 「紀陽道法記」、「熊野参山案内之記」(1685)には「スルダ坂五町、那智勝浦、在家有り。是ハ順道ヨリ東ニテ往還暦ス。順路ニアラズ」とあり、スルダ坂が順道であったことを示している。              説明板から転載
加寿地蔵

加寿地蔵の由来
むかし、身分の高いお姫様が熊野詣での折に命を落とされ、ここ駿田峠に祀られました。古老の方々の言い伝えによると名を歌子姫といい、酒泊をお供えする風習があったことから粕地蔵さんとよばれ、大変親しまれてまいりました。 婦人病や足腰の病の治癒にご利益があり、子授け地蔵、安産地蔵、足腰地蔵、縁結びにも恵まれるということから、加寿地蔵とよばれるようになり、多くの方々に寿び事を与え続けております。参道中腹に祀られているのは道中を共にした妹の桜姫です。
                              説明板から転載
加寿地蔵
格子戸を開けて、拝ませてもらいました。
加寿地蔵

この小さなお地蔵様は、加寿姫とともに熊野詣の折に此の地を訪れ、この駿田峠で亡くなった幼い妹姫:桜姫をお祀りしていると伝えられています。            説明板から転載
駿田峠付近の熊野古道。このあたりはよく整備されており迷うこともない。
13代亀山城主の墓。
亀山城とは和歌山県御坊市の亀山城(湯川氏)のことです。秀吉に敗れてこの地で亡くなったと言われています。もう少し山側にあったのが山崩れで転がっていたところ禍が続いたので、ここに立て直したということです。                 説明板から転載
やかし潟周回遊歩道に出ていた温泉。顔や手を洗ったが、適温。垂れ流されていたが、湯量も豊富な様子。「ゆりの山温泉」として数軒の旅館もあった。
ゆかし潟の向こうに見えるのは湯川温泉。
ゆかし潟
吉野杉の中をゆく熊野古道。
二河(にごう)峠
二河峠は、那智勝浦町の中南部、二河地区に位置する峠である。「紀陽道法記」には、「上下五町半」とされ、二河の左畑に越える古道とある。沿道は谷沿いに雑木林をゆるやかに下り、谷川を2度渡ると水田跡などがあり二河に至る。 二河とは、「続風土記」に「川の原は、那智妙法川より出つ、二河の名、古くは此近の総称にして、此川と湯川と合流して海に入るより其の名あるらん」とある。
                                   説明板から転載
アスファルト舗装された道を横断し、次の峠に向けて山道に入っていく。
アスファルト舗装された道を横断し、次の峠に向けて山道に入っていく。
与根河(よねご)湖
与根河(よねご)湖
市屋峠
太田川を渡る。
浦神峠
海蔵寺
海蔵寺 山門
海蔵寺 本堂
海蔵寺 鐘堂
古座神社 鳥居
古座神社 本殿
古座神社

2017/09/06   串本〜紀伊大島〜潮岬 〜串本駅     15.7km   

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串本駅前  トルコの軍艦エルトゥール号遭難事故を記念したモニュメントが目につく。
串本駅
まず、紀伊大島に向かう。紀伊大島は串本町の沖合い約1.8kmの海上に浮かぶ面積およそ9.68平方km、周囲28kmを誇る和歌山県下最大の島である。

トルコ軍艦遭難慰霊碑
1890年トルコ国特派使節団を乗せた軍艦エルトゥール号が暴風雨のため、この慰霊碑眼下の海域で難破しました。島民は献身的な救助お活動を繰り広げ、69名を救助しましたが、580余名の乗組員の尊い命が奪われました。そして、引き上げられた遺体をこの丘に埋葬しました。                  〜案内説明板〜
ムスタファ・ケルマ・アタチュルク騎馬像
第一次世界大戦後、分割占領された祖国開放に立ち上がったムスタファ・ケルマ・アタチュルクは、指導者としてこの戦争を勝利に導いたトルコ国民の偉大な英雄である。アタチュルクは初代大統領として、あらゆる分野で改革を行い、祖国の近代化を成し遂げた建国の父として今なお国民から深い尊敬を受けている。この騎馬像は日本トルコ友好の礎を築いた軍艦エルトゥール号の遭難120年に当たる年に、さらなる両国友好の発展を祈って駐日トルコ共和国大使館より串本町に寄贈されたものである。          〜案内説明板〜
樫野崎灯台 
1870年6月に初点灯。石造り、閃光灯の灯台として日本最古のものである。設計と建設指導はイギリス人技師リチャード・ヘンリー・プラントンによって行われた。灯台の周りに群生する水仙は、外国偉人技師たちが異郷での孤独な生活を慰めるために、本土から取り寄せ、移植したものと言われている。             〜案内説明板〜
美しい岩礁と青い海。
トルコ記念館
遠くに樫野崎灯台が見える。
青い海と濃い色の岩礁。砕け散る波の白さの対比が美しい。
広葉樹のトンネルを通って、岬に向かう。
海金剛
鋭く切り立った岩礁に荒波が砕け散る迫力満点の景勝地。周辺にはウバメカジをはじめとした潅木が生い茂り、秘境的な雰囲気を演出。ピラミッド形や獅子頭のような巨岩が海面から突き出す様子には身がすくむほどの迫力と近寄りがたい神秘が感じられるはずです。研磨された大小さまざまの岩石、断崖の配置は、自然が織りなす造形の極致と賛嘆されており、昭和58年1月に朝日新聞社の「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれました。
                       〜南紀串本観光ガイド 〜
くしもと大橋。  本州紀伊半島と紀伊大島を結ぶ。
290mのアーチ橋と、苗我島に架かる386mのループ橋からなる。   
潮岬は本州最南端。
潮岬方面の海岸線。




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