中辺路は紀伊田辺から熊野本宮大社に至る道、熊野本宮大社から熊野那智大社内と熊野三山とを結ぶ参詣道で、110kmにもおよびます。苔むした山道が続き、登り下りで疲れましたが、足掛け3カ年を要して歩き通しました。
2017年6月18日 紀伊田辺駅 〜 滝尻王子 26.9km
2015年8月24日 滝尻王子 〜 牛馬童子 11.7km
2017年6月19日 牛馬童子 〜 湯峰温泉 23.4km
2017年6月20日 湯峰温泉〜熊野本宮大社〜請川〜小口 16.2km
2017年9月 5日 小口〜熊野那智大社〜那智駅 16.2km
2017年9月 4日 那智駅〜熊野速玉神社〜神倉神社 15.7km
2015/08/24 牛馬童子口バス停 〜 滝尻王子 11.7km
始点: 牛馬童子口バス停 7:35 〜 終点: 滝尻王子バス停 10:54 3時間19分
行き 紀伊田辺 ビジネスホテル泊 紀伊田辺駅前バス停 6:35発 → 牛馬童子口バス停 7:34着
帰り 滝尻 バス停 11:06発→紀伊田辺駅前バス停 11:45着 紀伊田辺 12:10発→ 御坊 12:55着 13:00発 →和歌山14:07着
14:14発→天王寺 15:25着 外回り環状線で鶴橋駅に出て食事。三田帰着は18時頃 青春18切符で移動
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7:35 牛馬童子バス停で降りて、道の駅で一休み。 | 7:52 大坂本王子。 大坂(逢坂峠)の麓にあるところから、この王子社名が付いたようです。 | 7:52 大坂本王子に立つ笠塔婆。 鎌倉時代後期のもので滝尻王子や大門王子にも同様のものがある。元には笠石が乗っていたのかどうかは書かれていない。 | 8:43 上多和(うわたや)茶屋跡 この山は標高600m。熊野詣での盛んな頃は、ここに茶屋もあったといわれ、大正期にも人家があって林中には三界万霊塔やお墓もある。 |
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熊野杉の木立の中に続く熊野古道。 | 8:43 悪四郎邸跡。 十丈の悪四郎は伝説上の人物で、力が強く頓智に長けていたと言われる。悪四郎の「悪」は悪者のことではなく勇猛で強いという意味である。 | 8:49 十丈(重點)王子。 現在は十丈(じゅうじょう)王子と呼ばれているが、鎌倉時代の日記には重點(じゅうてん)王子と書かれています。 | 8:49 十丈王子。 木立の中の石畳。よく整備されている。 |
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9:15 大門王子 名前の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによると考えられています。 | 9:35 高原熊野神社 熊野九十九王子には入らないが、春日造の本殿は室町時時代前期の様式を伝え、中辺路における最古の神殿建築。 | 9:35 高原熊野神社 熊野九十九王子には入らないが、春日造の本殿は室町時時代前期の様式を伝え、中辺路における最古の神殿建築。 | 滝尻王子を起点に順に立てられている道標。 |
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10:32 不寝(ねず)王子。 | 10:54 滝尻王子 | 10:54 滝尻王子社の本殿 | 滝尻の熊野古道館から富田川の上流を望む。 |
2017/06/18 滝尻バス停 〜 紀伊田辺駅 26.9km
始点: 滝尻バス停 10:53 〜 終点: 紀伊田辺駅 時間 分
行き 三田駅 5:07発 大阪環状線・阪和線・紀勢線 を通って紀伊田辺駅 9:55着 駅前バス停 10:15発 → 滝尻バス停
10:53着
スマホのGPSでトレースしました。別ウィンドウで開きます。 |
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10:54 滝尻バス停から右手は熊野古道館、左手の山裾に滝尻王子があります。 左手の山を登っていくと、熊野大社本宮へとつながります。 |
11:21 清姫の墓 「煩悩の焔も消えて今ここに眠りまします清姫の魂」とのご詠歌が刻まれています。 |
11:29 吊り橋に着いた。 |
11:29 地図で描いたイメージとはかけ離れたもので、2tまで耐えれる橋だった。車も通行可。 |
11:47 南無阿弥陀仏の碑。 徳本上人は1758年、和歌山県日高町に生まれ、27歳まで全国を行脚し、念仏を唱えて布教し人々を助けてまわりました。このように全国に残された石碑は千基を越え、疫病から免れると人々の信仰の対象になりました。 〜 説明板から〜 |
11:51 杉木立の中に続く道はよく整備されている。 |
12:05 富田川左岸に沿って続く道。 |
12:07 念仏渕 後鳥羽上皇はいつも頭痛に悩まされていましたが、熊野に参ることで頭痛が治ると信じ、毎年熊野詣をしていましたが、ある時、熊野権現が夢枕に現れ、「お前の前世のドクロが川の中に沈み、柳の根がドクロに入り、水が流れるたびに柳の根を動かし、ドクロが揺れるから頭が痛むものだ。」とお告げがありました。 早速、阿修梨を呼び、念仏を唱え、、ドクロを取り出すと頭痛がすっかり良くなりました。 それ以来ここで念仏を唱えると、渕の底から念仏が聞こえるようになったといわれています。 〜 説明板から〜 |
12:14 藤原定家の歌碑。 1201年後鳥羽上皇お供した定家は、10月13日、田辺御所からその日の宿所 滝尻に向かいました。「鮎川王子から滝尻王子の間は、川に写る紅葉がきれいだ。次にゴツゴツして険しい山を登り滝尻王子に着く」と書いています。その夜、滝尻の歌会で「そめし秋をくれぬとたれかいはた河またなみこゆる山姫のそで」 という歌を詠んでいます。 〜 説明板から〜 |
12:18 お薬師さん(薬師如来) お薬師さん(薬師如来)は、医薬の仏で万病を癒やして寿命を延ばし、衣食などを満足させる、現世利益をもたらす仏として信仰されています。当地では耳の病気になると、川原で穴の開いた小石を見つけ、お薬師さんにお供えする習慣があります。 〜 説明板から〜 |
12:19 御所平 御所平は、後白河上皇の頓宮(仮の御殿)があった場所と言われています。後白河上皇は1160年10月23日から、1ヶ月にわたり、初めて熊野御幸されたと言われており、1191年まで30回余り、御幸されています。 〜 説明板から〜 |
12:19 綺麗に整備された道標。すれ違うのは殆んど外人。 |
12:34 住吉神社 |
12:34 住吉神社 神殿 |
12:44 鮎川王子 藤原定家は、1201年10月13日、この王子社に参拝し、日記には「アイカ王子」と書いています。鮎川王子と記されているのは、1210年に熊野に参詣した藤原頼資の日記です.アイカも鮎川も、合川(川か合流するところ)に由来するようです。頼資は修明門院に随行して熊野参詣をしたのですが、鮎川付近で災難に遭遇しました。 4月28日、大風雨のの中、田辺を出発した一行は、石田河の一の瀬を渡ったころから、川か増水しはじめ、頼資は鮎川王子にたどり着きますが、六の瀬の付近で溺死者が出たのです。随行した公卿の従者等9名が命を落とし、女院も急遽予定を変更して真奈子(中辺路町真砂)に宿泊しています。江戸時代には王子社といわれ、拝殿を備 えていましたが、明治時代に住吉神社に合祀されました。跡地は、その後、崩壊して原形を留めず、石碑が建つのみです。 〜 説明板から〜 |
13:29 一瀬王子 1201年10月13日、藤原定家は徒歩で「石田河」(岩田川=富田川)を渡り、この王子に参拝しています。平安・鎌倉時代の熊野参詣では、岩田川の瀬を何度も渡り、滝尻まで行きます。最初に渡るのが一の瀬です。1109年に参詣した藤原宗忠は、19度も渡っており、上皇や女院も徒歩で渡ります。この川の水で身を清めたのです。 「女院が渡る時は、 白い布を二反結び合わせ、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と、1427年に参詣した僧実意は日記に書いています。その後、王子社は荒廃し、江戸時代に再興されて、市瀬王子社、別名、清水王子・伊野王子などと呼ばれていました。明治時代に春日神社に合祀されましたが、1969年に現在のように整備されました。 〜 説明板から〜 |
13:29 一瀬王子 |
13:58 口熊野・樟(くす)の大古木 モニュメント 熊野のクマは、辺地をさすと言われ、熊野地方は原生林がうっそうと茂っていました。明治22年(1889)には、この地方に未曾有の大水害があり、富田川の水源地帯では山崩れが多く、川を堰き止めその堰が切れて大水(鉄砲水)が被害を大きくしました。この樟の大古木は、樹齢約五百年とも言われ、上流より流されてきて 平成九年に百余年ぶりに川底より姿を現し、平成11年の南紀熊野体験博・中辺路いやしの広場モニュメントとして好評を博しました。 〜 説明板から〜 |
14:02 稲葉根王子 |
14:02 稲葉根王子 藤原宗忠の日記「中右記」の1109年10月22日暮に、「伊那波弥王子社に参り奉納」とあるのが、この王子の初見です。1201年、後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家は、10月13日に稲葉根王子に 参詣していますが、この王子では、五躰王子に準じて、儀式が諸事華やかであったと日記に書いています。1210年4月28日修明門が参詣した際には、この王子を五躰王子として存続し、足利義満の個室・北野譲が参拝した折には神楽が奉納されています。近世には、「岩田王子」ともいわれ、村の地上神として祀られていました。 〜 説明板から〜 |
14:38 田中神社 和歌山県西牟婁郡上富田町岡 その名の通り、水田の少ない熊野では珍しい、田の中にある神社。 この神社は昔、田中神社から6kmほど上流にある岡川八幡神社の上手の倉山という山から大水のときに森全体が流れ着いたのだと伝えられています。 森全体ではなく、御神体か社殿が流れ着いたのだろうという解釈もできるでしょうが、森全体が流されたとしたら、ものすごい大洪水です。 世界的博物学者の南方熊楠により名付けられた「オカフジ」に覆われた小さな森の中に神社が経っています。この森は昭和31年に県の天然記念物の第1号として指定されました。 〜 説明板から〜 |
14:54 八上王子 建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した藤原定家の日記『後鳥羽院熊野御幸記』の十月十三日の条には「次ミス(三栖)山王子、次ヤカミ王子、次稲葉根王子」と八上王子の名があり、それより92年前の天仁2年(1109)に熊野を詣でた藤原宗忠(むねただ)という貴族の日記『中右記 (ちゅうゆうき)』の十月二十日の条には「田辺の王子に奉幣後、萩生山口で昼食をとり、山を越えて新王子社に奉幣した」というようなことが記されており、 この新王子社が八上王子であることは地理的に見て確実と思われることから、八上王子が天仁2年(1109)ころに設けられた王子であることが推察されます。 八上王子は西行法師(1118〜1190)が歌を詠んだことでも知られ、西行の生涯を描いた『西行物語絵巻』にも、西行が八上王子の社殿の瑞垣に歌を書き付ける場面が描かれています。 「 待ち来つる八上の桜咲きにけり あらくおろすな みすの山風 」 今の八上神社には残念ながら西行が歌心を誘われた桜は残っていませんが、境内には西行のこの歌の碑が2基、建てられています。ひとつは大正5年に建てられたもの。もうひとつが昭和62年に建てられたもの。大正5年のものが読みにくくなったので、その隣に新たに歌碑が建てられたそうです。 三栖山を越え八上王子を経て石田川(いわたがわ)に出るルートは江戸時代には潮見峠越えという別ルートに取って代わられ、八上王子はかつてのにぎわいを失いましたが、それでも土地の人々に産土社として尊崇され、明治時代に神仏分離して神社となりました。 八上王子はその後、明治41年(1908年)に合祀されて廃社となりましたが、氏子住民たちが粘り強く抵抗を続け、7年後の大正4年(1915)に復社を果たすことができました。 〜 説明板から〜 |
15:48 射撃場跡 昭和初期に三栖在郷軍人会が射撃練習のため、この一を射座とし南東前方の竜口城山麓に的場を設け射撃場とした。ここで後に国防婦人会等も参加し銃後の備えとされたが、物資不足のため昭和15年頃これらの活動はちゅうだんされた。 〜 説明板から〜 |
15:49 三栖王子 三栖の地名は藤原為房の日記、「大御記」に見えます。為房は永保元年(1081)十月に熊野に参詣した際、三栖荘で宿泊しています。王子の名は藤原定家の日記、「熊野道之間愚記」に「ミス山王子」と書かれているのが初見です。承元四年(1210)四月の「修明門院熊野御幸記」でも三栖王子に参拝したことが記されており、 承久二年(1220)年11月に熊野参詣をした藤原頼資の日記にもこの王子の名が見られます。室町時代には、すでに、三栖から塩見坂(潮見峠)越えの道が開かれていましたが、応永三十四年(1427)九月に熊野参詣をした足利義満の側室・北野殿は、旧来の参詣路を経由しています。その後、退転し、江戸時代に再興されて「影見王子」 と呼ばれたようです。明治初年に八坂神社の摂社となり、同四十一年に一倉神社(現、珠簾神社)境内に移転しました。 〜 説明板から〜 |
15:49 三栖王子 |
16:15 万呂王子 万呂王子は、藤原宗忠の「中右記」1109年の条にはその名がみえず藤原定家の「御鳥羽院熊野御幸記」1201年10月13日の条には「秋津王子を過ぎて、次に山を超え丸王子に参る」とあり、この間に祀られたと考えられているが、秋津王子からの古道は定かではない。万呂王子の旧地については、11792年の「田辺領神社書上帳」に 「御神体石」、「往古より熊野九十九王子之内と申伝御座候」、「社僧社人無御座、無宮之神主一人御座候」などの記述かある。 明治10年(1877年)八月に、下万呂の須佐神社(旧名牛頭天王社)に合祀される前は、この付近に小さな森かあり、王子の面影か残っていたといわれている。 〜 説明板から〜 |
16:39 須佐神社 和歌山県田辺市中万呂5番地 須佐神社(すさじんじゃ)という名前の神社は日本各地にありますが、いずれも須佐之男命(すさのうのみこと)を祀る神社です。田辺市に鎮座するこの須佐神社もその内の一つです。 ご由緒によれば、 『神代の昔、須佐之男命(スサノウノミコト)が曾志毛里(新羅国)より帰り着いたところで、岩舟山なる地名あり。神武天皇が即位された時に祭祀されたと言う万呂三ケ村の鎮守旧社名は牛頭天王社、豊臣秀吉の紀州平定の際、当社だけ焼き打ちを免れたと言う。』とありました。 〜 説明板から〜 |
17:02 秋津王子 安井宮跡 秋津王子の創祀時期は不明であるが、藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』建仁元年(1201年)10月13日条に「前夜田辺に宿泊、早朝出立してまず秋津王子に参る」とある。しかし、藤原宗忠の『中右記』天仁2年(1109年)10月の熊野詣での記事には見えないので、この間に祀られたものと考えられています。 この付近一帯は左右会津川(三栖川、秋津川)に挟まれた氾濫原の低地で、長い年月の間の水没や水害などにより、現在では秋津王子の旧地や古道をたどることは難しい。秋津王子は江戸時代になってからも、柳原から落合、さらに安井という地へ移されたと考えられている。 この碑には、秋津王子が祀られていたといわれる安井宮が明治3年に雲の森神社(現在の豊秋神宮)に合祀されていたことが記されている。 〜 説明板から〜 |
17:15 秋津王子 この案内板は会津川堤防にあった。 |
闘鶏神社 鬪?神社は、壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。鬪?神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、 神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるものです。境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像があります。 そのほかにも、神社の社務所には源義経が奉納したといわれている笛(銘白竜)、弁慶産湯の釜、弁慶の父湛増が使ったとされている鉄烏帽子や鉄扇等の宝物が展示されています。 |
闘鶏神社 本殿 |
藤巖神社 現在の田辺の原形を作られた,田辺藩初代藩主「安藤直次(藤巖公)」の功績に感謝し、明治19年(1886)有志により、闘鶏神社境内に建立された神社です。 安藤直次公は幼少から徳川家に近侍し、姉川合戦、長篠合戦長久手合戦などに従軍。 のちに家康の側近として幕政に参画しました。 慶長15年(1610)家康の第十子頼宣の傳役となり、大阪の陣には頼宣に従って出陣。 元和五年(1619)頼宣が紀伊に移ると、紀州徳川家附家老として田辺藩主となり三万八千八百石を支配しました。 屋敷城(後の錦水城)の築城と城下町の整備が進められ、商業や文化面に力を注ぎ、領内に痩せ地や耕作不能の土地が多いことから、梅の栽培を奨励。税を免除して保護政策を取ったことで梅栽培が広まったと伝えられています。 |
2017/06/19 牛馬童子口バス停 〜 船玉神社〜湯の峰温泉 23.4km
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7:43 牛馬童子口バス停 |
7:43 牛と馬にまたがる童子をスケールアップしたモニュメント。 |
よく整備せれた古道。 |
7:56 これがホンマモンの牛馬童子。 |
8:07 なかへち美術館 |
8:08 近露王子 |
8:08 近露王子 |
8:15 近露伝馬所跡 |
8:20 野長瀬一族の墓所 |
8:53 比曽原王子 |
9:12 継桜王子 |
9:12 継桜王子 |
9:12 継桜王子 |
9:13 本格的な茅葺の茶屋 |
9:15 安倍晴明の腰かけ石 |
9:28 中川王子 |
9:55 小広王子 |
10:05 熊瀬川王子 |
10:11 一里塚 |
10:17 草鞋峠 |
11:34 迂回路 |
11:48 湯川王子 |
11:48 湯川王子 |
12:09 三越(みこし)峠 |
13:21 船玉神社からの分岐で赤木越に入る。 |
13:51 鍋割地蔵 記銘は「享和三亥四月」とある。時宗の開祖一遍上人の従者聖戎(しょうかい)が、上人に捧げる昼飯を炊いていたところ、鍋の水がなくなり、鍋が割れてしまったという伝承が残されていて、この一帯を「鍋荒峠(なべあれとうげ)」と呼んでいたようである。この故事から後に「鍋割地蔵」と名付けられたものと思われる。 |
14:18 柿原茶屋跡 今も一軒の廃屋が残り、屋敷跡や裏手に墓地跡もある。「西国33所名所図会」には「湯峯より廿五丁にして柿原茶屋人家あり窪野村(現 田辺市本宮町久保野)といふ」と記されている。50mほど行くと、高さ23cmの石造り弘法大師像がある。 |
15:05 湯の峰温泉 湯胸薬師東光時 |
15:05 湯の峰温泉 玄峰塔 |
15:10 湯の峰温泉 力石 小栗判官が湯治の間、体力の回復を試すため持ち上げた大小の石を人々は「力石」と呼んでいる。 |
15:10 湯の峰温泉 温泉発見者の慰霊塔 湯の峰温泉は4世紀頃、大阿刀足尼(おおあとすくね)によって発見され、その後歴代上皇の熊野御幸によってその名も広く知られるようになった。 〜説明板より 〜 |
湯の峰温泉 つぼ湯 世界遺産 |
湯の峰温泉 |
湯の峰温泉 高橋一生のロケ風景 一生らロケ隊は隣の一流旅館に泊まっていた。私の泊まっていた二流旅館の窓から見下ろした写真を撮って、失礼だったかな? |
湯の峰温泉 湯筒地蔵 湯の峰温泉は成務天皇の御代(西暦23年)に発見された日本最古の温泉です。熊野詣の湯垢場(ゆごりば)として広く世に知られ奈良・平安の昔より、奥熊野の「薬湯」として名高い温泉です。「湯筒」は90度の白噴泉が私達に恵みを与えてくれています。また湯の峰温泉は「子宝の湯」とも言われ、多くの方がこの湯に入って 子宝を授かっています。 〜説明板より 〜 |
2017/06/20 熊野本宮大社〜請川〜小口 16.2km
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7:55 新宮川に沿ってはしる国道168号線を歩いています。 |
8:12 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」の石碑 明治22年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上中下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方700メートルの高台)に遷座しました。 |
8:13 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 |
8:16 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 |
8:20 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 大きな楠の木 |
8:22 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 参詣道 |
8:22 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 世界遺産です。 |
8:23 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 日本第1の大鳥居 幅 約42m 高さ約34m 斜め下から見上げて見ました。 |
8:26 熊野本宮大社の旧社地「大斎原(おおゆのはら)」 田圃の間を真っ直ぐに参道が大鳥居に向かって伸びている。 |
9:19 請川バス停横の小雲鳥越登山口 癒やしの熊野古道 中辺路 山深い静かな古道を巡る時、私たちは「蟻の熊野詣」と言われた中世の光景を想像することは難しいが、道沿いには往時の面影をとどめる石畳が見られ、王子社の跡が残されています。中世の人々は、なぜけわしい道を難関苦行しながら熊野へ向かったのでしょうか。神の国として信じられた熊野は熊野三山が仏が神に化身して現れると いう三所権現の地でもあり、それに山岳宗教の修験道が加わって極楽往生のの霊験あらたかなものとして全国に広がり、平安時代初期より江戸時代にかけて人々のあこがれの地として栄えてきました。今でも、中世の人々の祈りの声が私達の心にも蘇ってきます 〜説明板より 〜 |
9:25 杉木立の中をよく整備された道が続く。 |
10:06 道標には中辺路(小雲取越)とある。 |
10:15 松畑茶屋跡 広い平坦地に高い石垣を積んだ屋敷跡が二段にあり、墓地の跡もある。1739年の「熊野めぐり」には「松畑茶屋とて四、五軒も有り」と記されている。また、1747年の「三熊野参詣道中日記」には、灘五という者が十年前に松畑茶屋を訪れた際に、茶屋の子に名前をつけてやったことを思い出し、その子の安否を尋ね、今では十一歳の 美しい少年になっていたというエピソードが書き留められている。 〜説明板より 〜 |
10:42 百間ぐら 小雲取越の絶景ポイント。「ぐら」とは「高い崖」の意とされる。熊野三千六百峰と言われる幾重にも重なる山並みが美しい。北西には果無山脈の稜線が美しく眺められる。連なるように西南に遠く横たわるのは、紀南地方の最高峰 大塔山(1121.8m)を中心とした大塔山系である。西には野竹法師(970.8m)の均整の取れた姿が目立つ。 〜説明板より 〜 |
10:43 百間ぐら |
11:06 賽(さい)の河原地蔵 「賽の河原」とは、死んだ子供が行く所といわれる三途の川の河原。ここで子供は、親の供養のために石を積み上げて塔を作り、作っては絶えず鬼に崩される。そこへ地蔵菩薩が現れて子供を救うという。積み上げられた石は、この話にちなんでいるのであろうか。地蔵は熊野詣で亡くなった人々の霊を供養するために作られたのもと思われる。 〜説明板より 〜 |
11:13 石堂茶屋跡 1739年の「熊野めぐり」には「石堂峠」として、茶屋が2軒あり旅客を泊めていた、と記されている。また、1789年の「熊野詣紀行」では「さハのたわ茶屋」と呼んでいる。1848年の「西国三十三名所図会」には「石砥茶屋」とあり、山中から砥石がとれたため名づけられたとの記述がある。茶屋跡の中央付近には、枝が連なった桜 (連理桜)の顕彰碑も建つ。敷地の北側には水場、西方には茶店の墓石も残っており、往時の生活を偲ぶことができる。 〜説明板より 〜 |
11:55 桜茶屋跡 茶屋の庭先に桜の大木があったので桜茶屋と呼ばれたとのこと。街道沿いの茶屋の権利はもともと村が持っていたと見られ、桜茶屋の権利は、1717年に「西」村から孫七が買い取ったという証文が残されている。大正8年(1919年)の天理教大山分教会の記録に、桜茶屋の建物が教会の一部として利用されたことから、桜茶屋は その頃に営業を取りやめていたと見られている。 ここから南に見える楠ノ久保の辺りを通る白衣の参詣者の一団を見かけると、茶屋の主人は大急ぎで湯を沸かし餅をついた。また、水は、はるか下のほうから桶に入れた水を頭に載せて運んだと言う。 〜説明板より 〜 |
12:57 赤木川に降りてきた |
13:55 清蔵寺。 廃屋だらけのこの村でやって行けるのか。 |
14:10 小口キャンプ場 生け垣で区画の境界を仕切るキャンプ場。こんなキャンプ地は見たことない。一度、生け垣に囲まれ、芝生の上でテントを張ってみたいもんだ。 |
14:16 吊橋 一帯が白見山和田川峡県立自然公園になっているが、この橋は小口家族キャンプ場と小口自然の家をつなぐ。 |
14:20 小口自然の家 廃中学校舎を利用した宿。6月末でシーズンから外れていたのか、宿泊客は8人だけでした。でも、その内6人が外人。英語がなかなか通じない。外人同士喋っていて中には入っていけませんでした。 |
2017/09/05 那智駅〜那智の滝〜熊野那智大社〜小口 16.2km
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7:56 那智駅から国道43号線を歩いていたが、杉林の中をゆく地道に入った。 |
8:06 尼将軍慰霊塔。 尼将軍とは、源頼朝の室、平の政子の渾名で二位禅尼、尼御合所とも呼ばれ、頼朝の没後北条時政、義時父子とともに、二子頼家、実朝の後見人としてまつりごとを見た女丈夫であった。頼朝夫妻は熊野信仰があつく、那智山の社寺の建立もしている。 〜説明板、 |
8:07 尼将軍慰霊塔。 |
8:10 尼将軍(源頼朝の正室:北条政子)に仕え、尼将軍の墓を代々お守りした所縁の人々このに眠る。 |
8:10 柿の古木 幹の周囲2.9メートル伊勢平柿という甘柿の種類で、源頼朝の死後に植えられたと伝えられている古木である。 |
8:20 市野々王子 平安時代末の貴族、藤原宗忠(むねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』には、天仁二年(1109)条に熊野参詣の様子が記されていて、その十月二十七日条には「小川を数度渡り、一野王子社に参り、奉幣する」とあります。 近世には那智山の末社となり、若女一王子社あるいは市野々王子と呼ばれました。明治六年に那智山の支配から離れて、村社となり王子神社と改称。近隣にあった金刀比羅神社を合祀し、現在に至るということです。 市野々は八咫烏の子孫が住むといわれています。市野々王子の近くにある市野々小学校の校章もまた八咫烏です。 市野々王子はもとからここにあったという説と、100mほどの上手の文明の岡と呼ばれる所に旧社地があり、江戸時代にここに移されたのだという説があります。 |
8:20 市野々王子 |
8:56 那智大滝 |
8:56 那智大滝 滝は直下133m、銚子口の幅は13m、滝壷の深さは10m、平時の水量は毎秒約1t程度です。 |
9:00 那智御滝 飛瀧神社 その昔、神武天皇がこの大滝を神と祀られました。後に、飛瀧権現と称し、今日では飛瀧神社となりました。高浜虚子はこの飛瀧を「神にませばまことうるはし 那智の滝」と詠じています。 |
熊野那智大社 |
熊野那智大社 宝物殿 |
熊野那智大社 拝殿 |
熊野那智大社 御懸彦社 |
熊野那智大社 ヤマザクラの名木 県指定文化財 このヤマザクラは樹高15m、幹の周囲は約2mほどあります。藤原秀衡が熊野詣での時に奉納したと伝えられ別名「白山桜」と言われます。開花は遅く花は霞のようにたなびきます。 |
熊野那智大社 那智の樟(くす) この樟は、樹齢800年と推定され樹高は27m、幹周り約8.5m、枝張るは南北25mもあります。県下でも珍しい樟の大樹で、根幹部は空洞化しています。熊野三山造営の勅使として参った平重盛の手植えの樟と伝えられています。 |
熊野那智大社 樟霊社胎内くぐり この老樟は古来樟の精にあやかって樟霊社とし、また無病息災を祈り長寿を願って多くの人に崇められています。根幹部の空洞を通り抜ける「胎内くぐり」には備え付けの「護摩木」に願意・氏名を記入してはいる。 |
青岸渡寺の大黒天堂横の石段が大雲取越入口 |
よく整備された大雲取越の道 |
11:01 那智高原高原 |
11:05 舟見茶屋跡 「紀伊名所図会」には「山嶺より遠く海上を望めば嶋々の形態さながら刻むが如く、島がくれ行く帆船は蛤も白扇を散らすに異ならず、その絶景筆紙に尽くしがたし」とあり、古の昔から風光明媚な地として広く昔から広く知られていました。 |
大雲取越の番号道標は石柱。 |
11:19 色川辻で林道に出てきた。 |
12:15 地蔵茶屋跡の歌碑 |
12:15 地蔵茶屋跡 |
12:15 地蔵茶屋内の地蔵 |
12:23 苔生した石を踏んで登ってゆく。晴れていたから良いものの、雨降りだったら滑っての捻挫の心配をしないといけない。 |
歌碑 「紀伊のくに 大雲取の峰ごえに 一足ごとに わが汗はおつ 齋藤茂吉」 |
12:28 石倉峠 |
歌碑 「虎杖のおどろが下をゆく水の たぎつ速瀬をむすびてのみつ」 |
歌碑 「輿の中 海の如しと嘆きたり 石を踏む丁のことは伝へ 」 |
12:53 越前峠 大雲取越での最高標高840m 名の由来は越前の国を見るととが出来たとか? 森林限界以下で見晴らしも悪く見えるはずがない。 白髪三千畳レベルの誇張。 |
歌碑 「風のゆく梢の音か瀬の音か 下りの道は心たのしも」 |
13:38 |
13:48 歌碑と休憩所 「鯉のぼり大雲取の一軒に」 |
13:59 |
14:05 円座石(わろうだいし) 円座石は幅約5メートル、高さ約2・5メートルで、表面には熊野本宮大社(同県田辺市)の阿弥陀仏、熊野速玉大社(新宮市)の薬師仏、熊野那智大社の観音仏を示す梵字(ぼんじ)が刻まれている。「わろうだ」とは、わらやいぐさなどを丸く編んだ敷物のことをいい、3つの仏が石の上で談笑したと伝えられている。 〜産経west〜 |
14:21 ここを下ってきた。この時刻なら新宮まで戻ることも可能だったのだが、小口自然の家に宿泊。小口自然の家は2回目の宿泊。今回も宿泊者は青い目の外人ばかり。 6月20日に泊まった時、小雲取越に続けて大雲取越を踏破するつもりだったが、大雨で諦めた。諦めて新宮に行くバスは途中の熊野川沿いの道で崖崩れに遭遇した。また、JRの電車は新宮から紀伊田辺までが止まっており、代替バスで移動したのを思い出した。ラッキーなことにこのバスが無料だったのも思い出した。 |
2017/09/04 那智駅〜熊野速玉神社〜神倉神社 15.7km
スマホのGPSでトレースしました。別ウィンドウで開きます。 |
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13:59 大狗子(おおくじ)峠手前の道標 |
14:02 大狗子峠へと登って行く。 |
14:11 大狗子峠を登り終えて、国道42号線に戻る。 |
14:13 狗子の浦。波は静か。 |
14:48 地層が波に現れ洗濯板状になっている。 |
14:50 前の写真の位置と隣り合わせなのに、ここの地層は海面と平行。 |
15:01 佐野王子 京都から熊野に向かう熊野参詣道沿いに祀られた熊野九十九王子の一つ。 承元四年(1210)五月、後鳥羽上皇の後宮・修明門院が熊野参詣した際、ここで昼休にしたという記録があります。 この参詣に随行した藤原頼資(よりすけ)は、阿須賀(あすか)・高蔵・佐野・一乃野の王子社を日記に記録しており、このころ新宮〜那智間に四王子社があったことがわかります。 『紀伊続風土記』には、近世には那智山の境内末社となり、その後、社が廃絶して「若一(にゃくいち)王子の森」といわれたと記しています。 なお、熊野参詣の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、那智山の社壇に奉納する習慣があったと伝えられています。 〜説明板〜 |
15:01 佐野王子 |
15:30 八幡神社 |
阿須賀神社 |
阿須賀神社 |
阿須賀神社 |
阿須賀神社 |
阿須賀神社に除福を祀る「徐福の宮」があった。 |
徐福公園 伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したというが、そのうち蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後、新宮に住み着いたという。ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で没したと伝わっている。 この公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736年)に建立されたもので、紀州藩初代藩主である徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせたものと伝わっている。〜説明板〜 |
徐福像 |
徐福の墓 |
新宮城跡 |
新宮城跡から熊野川と対岸市街を眺める。 |
16:10 瑞泉寺 |
16:38 亀遊山・清閑禅院 |
16:45 熊野速玉神社 和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山の一つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。 |
熊野速玉神社 入口の大鳥居 |
熊野速玉神社 熊野御幸 上皇(法皇)の熊野詣が熊野御幸。白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の院政期が中心で、この四上皇の度数がとりわけ多い。全体で140度を数える。 |
熊野速玉神社 拝殿 |
熊野速玉神社 東門側から礼殿側を望む。手前から鈴門が並びその奥には第四殿若宮、第三殿証誠殿、第一殿結宮、三神殿、第二殿速玉宮が立ち並ぶ。 |
熊野速玉神社 礼殿 |
熊野速玉神社 神門 |
熊野速玉神社 熊野神宝館 |
熊野速玉神社 御神木 梛(なぎ) 平重盛お手植えのナギとの伝承がある。幹周り6m、高さ20mで、我が国最大の梛の木として天然記念物に指定されている。ナギは凪に通じることから、家内安全のお守りとされ、熊野詣の証にナギの小枝を手折って持ち帰ったことが古書にも見える。 ちなみに、藤原定家は次の和歌を詠んでいる。 千早振る 熊野の宮の なぎの葉を 実らぬ千代の ためしにぞ折る |
熊野速玉神社 武蔵坊弁慶 弁慶の生涯について、歴史的に謎に包まれているが、熊野別当の関係者として今日まで伝えられている。当地の伝承として、弁慶の出自は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされ、源平の戦いに出陣したとなっている。 また、その最期においては源義経の叔父である新宮十郎行家とともに源頼朝から追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられている。また、弁慶に関する史跡として、弁慶産家楠跡石碑と旧産屋敷の地(奥野々)に残されている鉄甲塚がある。 |
熊野速玉神社 左が 鑰宮(かぎのみや) 手力男(たぢからお)神社。 右が八咫烏(やたがらす)神社 |
17:04 本廣寺 新宮城主 水野家菩提寺 日蓮宗恵雲山本廣寺は、開山(1496)当初法華寺を名乗っていたが、延宝六年(1678)新宮城主三代の水野重上侯がこの寺を菩提寺とした時、父重良の法号・本廣院をとって寺号とし、母の法号・恵雲院を山号として恵雲山本廣寺と改めた。位牌堂の中心には水野家歴代主・夫人及び親族の位牌を祀っている。 また、この寺には水野家所縁の品として、現在では制作が困難といわれる精巧緻密な工芸技術による水野家定紋「沢瀉」の入った経机や、茶道江戸千家の流祖川上不白が五代水野忠昭侯より拝領した定紋入りの飯器などを所蔵し、境内には千穂ヶ峰から流れる滝を借景とし、新宮城から移された様々な石を巧みに配置した庭園がある。 〜 案内板 〜 |
本廣寺 新宮城主 水野家菩提寺 |
17:12 神倉神社 熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社である。熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地、熊野信仰の根本とも申すべき霊所である。 御祭神 高倉下命は建国の功臣 熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の祖として知られ、農業、漁業の保護神として御神徳が高い。 〜 案内板 〜 |
神倉神社 鳥居 |
神倉神社 急峻な参道。すべて天然石を並べたもので、その数、 538段。 |
この大きな岩とゴトビキ岩に挟まるように神倉神社の拝殿が建つ。 |
17:23 神倉神社 拝殿とその上に覆いかぶさるような巨岩。この岩が御神体のゴドビキ岩。琴弾き岩とう説もあるらしい。長さ何メートルあるか、しめ縄が掛かる。 |
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