新西国霊場とは 大阪時事新報(現・産経新聞)、神戸新聞、京都日日新聞(現・京都新聞)の三都新聞連合の企画により、聖徳太子の「和の道」を基調とし、読者の人気投票に基づいて選定された33箇所の観音霊場をはじまりとする。戦後、霊場を辞退した2霊場を入れ替え、1967年(昭和42年)に客番5霊場を加えて38箇所となった。 近畿2府4県に散らばる38寺を順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
客番 観心寺から 客番 磯長山叡福寺をめざして
2018/5/20 観心寺 ⇒ 叡福寺 12.8km
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。 |
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富田林市に入った。この狭い道を猛スピードですり抜けていく車が怖かった。40〜50km/hオーバー。 |
大坂芸術大学がこんなところにあった。小高い山の上に。 |
客番 磯長山叡福寺 | 磯長山 叡福寺は、聖徳太子と、その二ヶ月前になくなられた太子の生母穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后と、一日前(一説には同日)に亡くなられた太子夫人膳部大郎女とを葬ってある。いわゆる三骨一廟である。太子は二十七歳の時、この叡福寺の地を御廟の候補地とし、周囲を寺院地とされ、四十七歳の時、廟をお造りになられた。太子没後、聖武天皇の勅願により太子のお墓をお守りご追福を祈るため、神亀元年(724年)七堂伽藍が完成した。このゆえに叡福寺は、太子寺、御廟寺、聖霊院などと呼ばれる。 |
御詠歌 磯長(しなが)なる み寺にいまも うまやどの みこのみたまは しずまりてます |
聖徳皇太子磯長御廟の石塔が立つ。 |
南大門(山門)には聖徳廟の額が掛かっていた。 |
多宝塔 |
金堂 |
弘法大師堂 |
見真堂 |
磯霊墓 |
聖霊堂 |
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