新西国霊場巡礼の足跡
新西国霊場とは
大阪時事新報(現・産経新聞)、神戸新聞、京都日日新聞(現・京都新聞)の三都新聞連合の企画により、聖徳太子の「和の道」を基調とし、読者の人気投票に基づいて選定された33箇所の観音霊場をはじまりとする。戦後、霊場を辞退した2霊場を入れ替え、1967年(昭和42年)に客番5霊場を加えて38箇所となった。

近畿2府4県に散らばる38寺を順不同でつないで歩いて行きます。

なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。


客番 有栖山清水寺から4番 龍谷山水間寺 をめざして
                                  水間観音と言ったほうが解りやすいかも



2018/03/10   JR天王寺駅⇒JR熊取駅   34.9km

行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。

ヤンマースタジアム(長居陸上競技場)
長居公園内の周回道路
長居公園内にある臨南寺の山門。   3月大阪場所が11日から開かれるが、ここには鏡山部屋ののぼりがハタメイていた。
ご神木の桜はきれいに咲き誇っていた。今、ちょうど見頃。
ご神木の由来  
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみことじんじゃ)     大阪府大阪市住吉区
止止呂支比売命神社の中に祭られている摂社の「霰松原荒神」
大和川を渡っています。
かっては汚いことで全国有数の川だったが、今は随分綺麗になったと聞きます。
南海電鉄・堺東駅前に広がる堺市役所高層ビル。
JR熊取駅に着いた。


                                             



2017/08/17   JR阪和線・熊取駅⇒水間寺   6.5km

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煉瓦館   大阪府泉南郡熊取町五門西1丁目10-1
昭和初期に建設された綿布工場を産業遺産として長く保存しつつ、住民の生涯学習活動や産業などの交流活動の場、芸術および文化の発展やコニュニティーの醸成、地場産業の振興を図り、もって広く町民文化の振興に寄与することを目的に設置しました。       ~説明板~
煉瓦館
中家住宅             重要文化財
中家住宅の南面する大きな表門(三間薬医門)を入ると、正面に豪快な土間を持つ主屋が妻面をみせて建っています。
主屋は入母屋造り・茅葺き・妻入りで、周囲に本瓦葺きの庇をめぐらしています。独立性の強い土間は近畿地方でも最大規模のもので寺院の庫裏や武家の台所を思わせます。また、架構形式を持つ土間と柱の省略の多い居室部は中世の雰囲気があります。             ~ HP ~
中家住宅
古い町並みが所々に見られた。
水間公園手前の池。




4番 龍谷山水間寺 "水間参り"、"厄除の観音さま"で知られる水間寺は、聖武天皇勅願、僧行基によって創建された。その由来は、第四十五代聖武天皇が病床にあられた夜、夢のお告げで霊験あらたかな観音出現を感得され、僧行基が勅命を拝し、現在の水間寺の地を訪れ、本堂裏の滝において、一寸八分の観音の尊像を授けられた。これが秘仏(現在まで開帳なし)のご本尊である。
また水間寺では、"千本搗(つき)"という珍事が開山の千二百有余年前より現在まで中断されることなく行われている。この千本搗は、長い棒(キネ)を持った人々が臼を囲んで餅をつくという行事で、その由来は、僧行基が観音出現の地を求めて、この水間寺の地に来たところ、十六人の童子(観音の化身)が現われ、滝に誘われ、観音像を授けられてより、伽藍完成まで起居をともにし、聖武天皇、光明天皇が落慶供養の際、行幸啓された折、気を切って棒を作り、それで歌に合わせて餅をつき、本尊に供えたことが始まりと言われている      ~HP~

御詠歌       みなかみは 清き流れの 水間寺 願う心の 底は濁らじ
宗派         天台宗
開基          行基菩薩、聖武天皇勅願
ご本尊        聖観世音菩薩
創建         天平16年(744年)
所在地       大阪府貝塚市水間638



本堂   旧国道170号線から
行基堂
本堂の南側を山手に向かって進み、通天橋を渡って石段を少し上がるとすぐ左手に当山開基の行基菩薩が祀られている行基堂が見える。
行基菩薩が開山のとき、ご自身の姿をすぐ横の鏡池に写し、霊椿木で御自作の像を刻まれ安置されるも、天正の兵火に惜しくも焼失したとされている。
現在は天明の大火にも免れた作者不明の座像を安置しており、境内諸堂中最古の建物となっている。
                ~ HP ~
薬師堂
この堂には薬師如来像が祀られている。行基菩薩が当地を訪れたとき、聖観音の出現を願い薬師如来像を祀ったと伝えられている。                         ~ HP ~
観音像
伝説によりますと妊婦の方が石臼の周囲を廻ると安産につながると言い伝えられておりますので、観音像の台を石臼の形にいたしました。
    説明板から
弁天堂
智恵財宝を与えて下さる弁財天が祀られている。南海七福神の弁天さんとして、七福神めぐりの一神を司っている。                 ~ HP ~
旧国道170号線を隔てた弁天堂付近から三重塔などを望む。
通天橋
三重塔
開基当時は多宝塔で多宝如来を安置した。古い記録によれば孝謙天皇が舎利塔を安置したと伝えられている。
本堂同様、天正の兵乱に焼失したので萬治年間に改めて三層の塔を建て、釈迦仏の像を安置した。
井原西鶴の「日本永代蔵」に記載されたモデルの塔と考えられる。
現在の塔は、天保5年(1834年)に再建されたもので、明治以前に建てられた大阪府内唯一の三重の塔である。三重塔の第一層の軒下のかえる股に十二支の彫刻があり、見どころとなっている。
                   ~ HP ~
護摩堂
本堂南側の寄せ棟造り本瓦葺きの建物で、ここには一切の悪魔を降伏させるという不動明王が祀られている。
不動明王はあらゆる障害を焼き尽くす、大智の火を身から発するといわれ、大日如来の使者となって真言信者を守護する役割を担っている。(この不動明王立像は鎌倉時代のものと推定される)この護摩堂において、毎月18日に病気平癒、心願成就を祈って護摩供養が行われている。建物の老朽化が進んだために、現在の護摩堂は2013年に新しく建て替えられたものである。     <2013年10月4日に落慶法要が執り行われた>                   ~ HP ~              
本堂
天正13年(1585年)豊臣秀吉の根来攻めの際、根来側についた当寺は、堀秀政の軍勢により焼き討ちに遭い、七堂伽藍をはじめ坊舎等は灰燼に帰してしまった。その後復興するも、天明4年(1784年)に火災により全焼する。
現在の本堂は岸和田藩主岡部長愼の寄進により、文政10年(1827年)に再建されたもので、二重屋根に本瓦を葺いたどっしりとして安定感のある堂々とした建物である。
ご本尊の身丈1寸8分の聖観世音菩薩は秘仏となっており、公開されないが、本堂正面にはお前立聖観音菩薩立像が安置されている。                   ~ HP ~
鐘楼
経堂
聖武天皇の妙典、光明皇后の般若経、慈覚大師妙法経等がこのお堂に納めてあったが、昔兵火に遭って全て焼失する。現在大般若波羅密多経600巻と大蔵経等が納められている。このお堂に安置されている尊像は、傅大師(ふだいし)とその長男、次男で、傅大師は、仏教に徹し、自分を捨てて常に難民の救済にあたっている。傅大師は特に輪蔵(経を納めた書架で周囲を回ることが出来るようになっている)を旋回することによって読経したのと同じ功徳を人々に与えて衆生を導いたことにあやかり、この経堂に傅大師とその二子の尊像を安置している。               ~ HP ~
   
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