新西国霊場とは 大阪時事新報(現・産経新聞)、神戸新聞、京都日日新聞(現・京都新聞)の三都新聞連合の企画により、聖徳太子の「和の道」を基調とし、読者の人気投票に基づいて選定された33箇所の観音霊場をはじまりとする。戦後、霊場を辞退した2霊場を入れ替え、1967年(昭和42年)に客番5霊場を加えて38箇所となった。 近畿2府4県に散らばる38寺を順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
12番 萩の寺から 3番 雲松山鶴満寺をめざして
2017/10/4 萩の寺 ⇒ 阪急・庄内駅 5.9 km
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。 |
---|
ここはに有った5階建ての独身寮に9年間程住んでいたが、その面影は一切ないマンションに建て替わっていた。敷地内にあったテニスコートで汗を流したのも懐かしいが、それらを潰して広大な敷地が巨大で10階を越えるマンションに様変わり。 |
2017/10/11 阪急・庄内駅 ⇒ 鶴満寺 7.5km
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。 |
---|
これが、今の神崎川。40年ほど前、大阪で暮らしていたが、臭くて汚れよどんでいた川だった。それが今はこんなにも変わって、きれいな水が流れていた。河川敷はきれいに整備され、高層マンションが林立する街に生まれ変わっていた。」 |
三国の渡し跡 三国橋が架かるこの場所に三国渡しがあり、「太平記」に記されている南北朝の楠木、和田軍と箕浦・佐々木軍との争いのあった正平17年(1362年)には、この場所に三国渡しが存在していました。 江戸期の渡しは能勢、池田地方の特産品が集められ大阪市中へ荷を積み出す港として重要な地でした。 三国橋は、三国渡しのあった神崎川に架けられた最初の橋であり、明治6年(1873年)に架設されました。当初三国橋は仮橋で、明治11年(1878年)になってから本格的な橋となりました。橋長185.1m、幅員3.6mと当時としては規模の大きな橋でした。その後、昭和14年(1939年)に河川改修に伴って大規模な補修が行われ、橋長135.7m、幅員5.5mと橋は短くなりましたが、幅員は広がりました。 現在の三国橋は、昭和35年(1960年)に完成したものでそれまでの木橋から鋼桁橋に架け換えられました。 案内説明板から |
淀川を渡っています。 |
3番 雲松山鶴満寺 | 境内は桜の名所として知られ、樹下に各地の巡礼所の観音仏を安置して百体観音と称し、崇敬を集めていたが、1885年に発生した明治十八年の淀川洪水で流されてしまった。 |
御詠歌 なにわ江の 昔ながらの 鶴満寺 今も変らぬ 法(のり)のみ光 |
山門 閉められておりここからは入れない。横に3階建の特別養護老人ホームがあり、そこへの入口から入った。寺よりも、老人ホームが主になっているような感じ。 |
本堂。 |
鐘楼。 ただし、訪れた時、鐘は無く、何処かに出張忠? 展示中? |
観音堂 |
![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() |