新西国霊場とは 大阪時事新報(現・産経新聞)、神戸新聞、京都日日新聞(現・京都新聞)の三都新聞連合の企画により、聖徳太子の「和の道」を基調とし、読者の人気投票に基づいて選定された33箇所の観音霊場をはじまりとする。戦後、霊場を辞退した2霊場を入れ替え、1967年(昭和42年)に客番5霊場を加えて38箇所となった。 近畿2府4県に散らばる38寺を順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
3番 鶴満寺から 2番 佳木山太融寺をめざして
2017/10/11 鶴満寺 ⇒ 太融寺 2.2 km
行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。 |
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地下街の「泉の広場」を上がった所の風景。 毎日のように地下街から上がって飲み屋街に繰り出していたが、当時と辺りは一変していた。スキーバスの添乗員として事務所に出入りしていたのもこの辺りだったように思う。 |
2番 佳木山太融寺 |
御詠歌 逢ひがたき 法の佳木を 得たる身は 苦しき海に などか沈まむ |
本堂 |
宝塔(2,3階部分)と不動堂(1階部分) |
不動堂に安置されている「一願不動明王」 |
岩屋の奥には「一願堂奥の院」と書かれた石碑があり、岩屋の上から細い細い水が滴り落ちている。夜にお参りすると一層、神秘的な雰囲気を味会うことになるのでは? |
石庭。 |
鐘楼。 |
史跡 淀殿の墓 淀殿は浅井長政の長女で母は織田信長の妹お市の方である。後に、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。秀吉亡き後は大阪城で豊臣方の中心人物になるが、大阪夏の陣で戦いに敗れ、秀頼と共に自刃した(1615年)とされている。 現存の墓は六重の石塔であるが元は九重の塔だったといわれている。この石塔は太平洋戦争時の空襲に遭っているが、大きな損傷をうけなかったようである。ただ、九重の塔であったのが六重の塔になったのは空襲による破損と思われる。 当初、淀殿の墓は現在の大阪城公園内にあったようであるが、明治10年(1877年)に現在の場所に移されたという。 |
白龍大神 |
西門 |
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