西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。 順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
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32番観音正寺から33番谷汲山 華厳寺をめざして
2017/1/5 観音正寺 ⇒ JR安土駅 10.6 km
こちらが本当の観音正寺への参道。 |
日吉神社 |
日吉神社 |
日吉神社 |
2017/5/18 JR安土駅 ⇒ JR米原駅
「琵琶湖一周jog」の中の「近江八幡〜彦根」「木ノ本〜彦根」の一部をここに算入しました。
2017/5/18 JR米原駅 ⇒ JR養老線・東赤坂駅 34.6km
格安切符で三田5:34発 各停で大阪へ 大阪からは新快速に乗り換えちょうど8時に米原に着いた。旧・中山道に沿って東進し、関ヶ原を抜け、宿場町を抜けて大垣まで歩いた。
スマホのGPSで行程をトレースした。別タグで開きます。 写真と見比べながら御覧ください。 |
8:21 米原駅を8:15に出て北東に向かって少し歩いたところにあったのが「北陸道と中山道の分岐を示す道標」。 中山道はJRの中央線のイメージが強くて此処に中山道の始点があったとは知らなかった。 |
8:24 深坂道。 歩いているのは県立米原高校生。始業が遅い。 深坂道の由来。 関ヶ原の合戦に功をたてた井伊直政は1601年に佐和山城に入城すると、いち早く長浜・松原・米原湊の彦根三湊の整備に着手しました。彦根藩の命を受けた北村源十郎は、1603年入江内湊より水路を開削して米原湊を開港しました。 そこで彦根藩として御用船など有事の際の目的と年貢米、蔵米など物資の中継基地としての役目をはたしました。また、古くより朝妻湊に対抗するため中山道・番場の宿より南にある摺針峠と鳥居本の切り通し越えよりも中山道・番場宿より 米原湊に直接通じる深谷越えが必要不可欠でありました。その工事は、北村源十郎に任され、三年の月日の末、1611年に深谷道の開通となり、美濃尾張からの荷が運ばれるようになりました。古くは十軒そこそこの民家であった米原村には米原湊の 開湊とともに人と物資が集まり、1843年家数201軒、人口904人の米原宿の誕生となりました。したがって、今日の米原の原点は米原湊と深谷道にあるといえます。 案内板から |
9:12 樋口山・正覚寺 真宗大谷派 米原市樋口350 |
9:13 西羅神社 米原市河南 |
9:46 中山道醒ヶ井宿の案内石塔 |
西行法師ゆかりの湧き水の一つ。清い水の流れで癒されるひととき。 〜説明板から |
9:57 醒ヶ井(さめがい)宿の通り。 古い家並みと道路と川面がマッチして美しい。 |
10:07 賀茂神社 醒ヶ井宿のはずれ、東端にあり、岩山を背景に立地。 |
10:23 長尾山・等倫寺 真宗 大谷派 米原市一色317 |
11:26 「やくし道」道標 正面には「從是明星山藥師道」 横面には「屋久志(やくし 変体仮名)へのみち」とある。 最澄が創立したという名星山明星輪寺泉明院への道しるべである。 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影もない。 この道標は1717年と古い。 |
11:30 日枝神社 |
12:02 この細い溝が近江と美濃の国境。(今は滋賀県と岐阜県の境) この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越し「寝ながら他国の人とに話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。 |
12:14 法善寺 真宗大谷派 岐阜県不破郡関ヶ原町 |
12:20 真宗寺 |
12:33 妙応寺 山門と鐘楼 |
12:36 妙応寺にある徳川家康公天下腰掛石 1600年、関ヶ原合戦に勝利した翌日9月16日に疲れを癒やすために中山道 今須宿本陣 伊藤新左衛門宅に立ち寄り 腰かけた石。 伊東家の菩提寺である妙応寺境内に平成28年に移設された。 |
13:00 伊吹山 1377m |
13:03 常盤御前の墓。 16歳で源義朝の愛妾となり、今若丸・乙若丸・牛若丸(源義経)の3児に恵まれました。義朝が平治の乱で敗れ、源氏がちりぢりになると、牛若丸が東国へ走ったと聞いた常盤御前は、乳母の千種とともに牛若丸の後を追いこの地にやってきました。ところが、ここで土賊に襲われ命を落としてしまいます。それを哀れんだ里人がここに葬り塚を築いたのだそうです。その後、母親を殺した土賊6人を、牛若丸が皆殺しにし、母の恨みを晴らしたという内容の絵巻物も残っています。 |
13:19 関の藤川 この川は伊吹山麓に源を発し、関所のそばを流れていることから「関の藤川」と呼ばれていました。壬申の乱(672年)では、両軍がこの川を挟んで開戦。さらに、関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。 またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが世に知られています。 〜説明板から |
13:23 不破の関 不破関跡は北側に標高1,337mの伊吹山、南側に養老山地、鈴鹿山脈がせまった関ケ原町に所在している。関ケ原町は東西日本を結ぶ交通の要所であり、現在でも国道21号、名神高速道路、JR東海道新幹線などの主要幹線が通っている。この関跡は伊勢国鈴鹿関、越前国愛発関とともに律令三関の一つであり、我国の古代交通の実態を明らかにするうえにおいて、欠くことのできない重要な遺跡である。 昭和48年(1973)から5か年にわたり、遺跡範囲確認調査が実施された。 その結果、関の外郭は版築による土塁がめぐっていることが確認された。その規模は、北面土塁の東西長460.5m、東面土塁の南北長432.1m、南面土塁の東西長約120mである。西側は藤古川によって画せられ、全体の形状は不整梯形をなす。東面土塁の東北隅からは、和同開珎を納めた土師器甕が出土した。その他検出された遺構としては、正庁跡と想定されたところから柱穴群がみられたほか、竪穴住居跡、望楼跡などがある。出土遺物は奈良時代の須恵器類・土師器類・瓦類・古銭などのほか、鉄滓・熔壁片・坩堝などの小鍛冶関係のものがみられた。 |
13:34 関ヶ原古戦場 西首塚 岐阜県不破(ふわ)郡関ケ原町一帯にある戦場跡。指定名称は「関ヶ原古戦場 附徳川家康最初陣地(つけたりとくがわいえやすさいしょのじんち) 徳川家康最後陣地(とくがわいえやすさいごのじんち) 石田三成陣地(いしだみつなりじんち) 岡山烽火場(おかやまのろしば) 大谷吉隆墓(おおたによしたかはか) 東首塚(ひがしくびづか) 西首塚(にしくびづか)」。関ヶ原古戦場は、安土桃山時代の1600年(慶長5)9月15日に、美濃国の関ヶ原を主戦場として行われた天下分け目の激戦地跡である。関ヶ原における決戦を中心に全国で戦闘が行われ、徳川家康の覇権を決定づけた。戦いの午前中の戦況は、西軍の石田三成(みつなり)、小西行長(ゆきなが)、宇喜多(うきた)秀家、大谷吉継(よしつぐ)(吉隆)隊の3万5000余の軍勢が東軍を圧倒していたが、戦況不利とみた家康が西軍の小早川(こばやかわ)秀秋を威嚇(いかく)して、小早川が東軍に寝返ったことから東軍が逆転勝利した。徳川家康は最初の陣地を桃配(ももくばり)山に置いたが、最後陣地は陣場野(じんばの)に位置し、合戦たけなわになると家康が桃配山から軍を進めて最後まで指揮をとった。また、戦いが終わると部下が取ってきた首を実検したところで、まわりの土囲いや中央の刑場は1841年(天保12)の幕命により、この地の領主だった竹中家が造ったものである。石田三成陣地は笹尾山に位置し、西軍大将の三成が陣を置いた場所で、現在は竹矢来(たけやらい)などが組まれている。岡山烽火場は、別名、丸山ともいい、合戦の際に東軍が烽火をあげた場所で、また、東軍の黒田長政と竹中重門(しげかど)が布陣した地でもあり、石碑がある。大谷吉隆墓は、盲目の軍師、大谷吉隆が石田三成の懇請により中山道を押さえていたが、合戦半ばに小早川らの裏切りにより、ついに自刃した。そのため戦後まもなく、藤堂家が五輪塔を建立して供養した。東首塚と西首塚は陣場野にあり、部下が取ってきた首を家康が実検して東と西の2ヵ所に埋めたところである。 |
14:16 家康最初陣地 1600年9月15日未明に、家康の配下三万余はここ桃配山周辺に周辺に陣取り、家康はこの山頂において大馬印を高々と掲げ指揮にあたりました。最後の陣地に移るまで各陣営からの報告を元に、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。ここにある二つの石は家康がその折にテーブルと腰掛に使用したと伝えられています。 〜説明板から |
16:08 白鬚神社 |
16:33 妙法寺 |
16:36 谷汲山への案内石塔 と 赤坂宿 説明板 赤坂宿 中山道 江戸から数えて56番目の宿場。 町の中心にあるこの四ツ辻は北に向かう谷汲巡礼街道と南は伊勢に通ずる養老街道の起点である。東西に連なる町筋には、本陣 脇本陣をはじめ旅旅籠十七軒と商家がのきを並べて繁盛していた。 〜説明板から |
2017/5/19 JR養老線・東赤坂駅 ⇒ 谷汲山 km
スマホのGPSで行程をトレースした。別タグで開きます。 写真と見比べながら御覧ください。 |
6:58 藤棚付きのカラー舗装された遊歩道を北進しました。 |
7:22 日吉神社。 岐阜県安八郡神戸町大字下宮1844?1 |
7:25 勧学院 |
7:33 カラー舗装された歩道に沿って色とりどりのバラが植えられており綺麗だった。 |
7:43 神護寺・善学院 神戸町 今からおよそ1200年前 天平年間の創建と伝えられ、嵯峨天皇の御代に日吉神社を護る寺として「神護寺」と号するよう勅令があり、元三大師が学問所として「善学院」と命名された。本堂は藤原時代の神殿造りで、建築上貴重なものである。 |
7:43 神護寺・善学院 鐘楼 |
7:44 神護寺・善学院 本堂 |
8:05 揖斐川を渡る。上流側を望む。遠くに見える山がこれから目指す谷汲山の方か。 |
8:41 妙圓寺 |
9:48 大谷トンネル |
33番 谷汲山 華厳寺
御詠歌 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり |
10:51 山門から延々と約1kmの参道が続く。 |
参道 |
11:03 仁王門 |
参道の左手に観音様が2体。 |
鐘楼 |
11:23 満願堂 |
11:35 満願堂から奥の院に続く参道。順に33寺のお堂が並ぶ。 |
11:45 華厳寺と奥の院とは1.5kmも離れているとは思ってもいなかった。 |
11:52 「奥の院」に到着。 概して奥の院といえば暗い場所にあり、重苦しい不気味な雰囲気を醸し出しているものが多いが、ここの奥の院は明るい場所に建てられており、一般に見られる奥の院とは若干趣を異にしている。 |
本堂の裏にある「おりずる堂」 |
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