西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。 順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
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4番施福寺から3番 風猛山粉河寺をめざして
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施福寺からダイヤモンドトレールを通って滝畑を目指す。ここは番屋峠。 |
ボテ峠。 |
よく整備されたダイヤモンドトレールを歩く。 |
光滝寺キャンプ場 |
大阪府から和歌山県に。蔵王峠にたどり着いた。 |
葛城蔵王権現社の本殿。 |
葛城蔵王権現社の入口。赤い鳥居が並び、コンクリート舗装された参道。 |
医王神社の遥拝所 |
山道を下りてきて京奈和自動車道を潜ると、妙寺駅も近い。 |
2017/4/3 JR和歌山線・妙寺駅 ⇒ 粉河寺 12.1 km
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明光寺 和歌山県伊都郡かつらぎ町佐野795 |
十五社(じごせ)の楠 和歌山県伊都郡かつらぎ町笠田東 幹の周り13.5m余で支幹が八方に張り、その様が森のようにみえることから十五社の森とも呼ばれている。 案内板から |
かつらぎ町の境にあるトンネル。 |
この白い幹は何の木かと最初判らなかったが、細くなった先端の枝を見てわかった。柿の木。 ブドウを栽培している時、防虫を掛けて冬に皮を剥いていたが、柿も同じように剥くようだ。柿の皮は向きにくいと思うがどうなんだろう。 |
3番 風猛山粉河寺
御詠歌 ちちははの 恵みも深き 粉川寺の 仏の誓ひ たのもしの身や |
十禅律院 参道 元来は平安時代の正暦元年(990年)石崇上人によって創建された粉河寺の塔頭十禅院であった。 江戸時代後期の寛政12年(1800年)、紀州藩10代藩主徳川治宝により十禅院を安楽律院に属する天台宗の寺院に改宗して十禅律院として創建。 東大寺の覚峯が後に建立する宝鐸院の堂塔を飾る長さ1尺6寸余の宝鐸を地中に発見した場所としても知られる。 |
十禅律院 築地門 龍宮造りの門です。 題字は十代藩主治宝直筆で「宝鐸墜」と書かれています。 |
十禅律院 本堂 |
粉河白山神社 右は稲荷神社 左は護国神社 産土神社と合せて4つの神社がひしめき合っていた。 |
粉河産土(うぶすな)神社 旧粉河の鎮守で、粉河寺の鎮守である神社です。紀州三大祭の一つである粉河祭はこの神社の祭りで、渡御が古式に従い行われます。江戸中期の建築とされる春日造の華麗な社殿で、背後の山は風猛山と呼ばれており、経塚が出土しています。 |
薬師堂 |
本堂 重要文化財 現存の「本堂」は享保5年(1720年)に再建されたものといわれ、江戸時代中期の寺院建築の代表的建造物とされている。「本堂」の造りは屋根を複雑に組み合わせた八棟造りといわれている様式であり、これがこの建物を大きくかつ立派に見せるのに役立っている。 |
鐘楼。 一突き50円で誰も突いていなかった。 |
千手堂 重要文化財 紀州藩主とその縁の人々の位牌が安置されているといわれている。 |
六角堂と湯浅桜 紀州(現、和歌山県)湯浅の住人、藤原宗永が本寺の本尊、千手観音のお告げで本堂の辰己(東南)の方向に植えたとされているのがこの桜の木といわれている。 |
水向地蔵 |
丈六堂 尊釈は一丈六尺あったとされており、この大きさに造られた仏像を丈六と言われている。この「丈六堂」の中には一丈六尺の大きさの阿弥陀如来像(実際の仏像は一丈六尺より小さい)が安置されている。 |
中門 重要文化財 四天王を安置する。「風猛山」の扁額は紀州10代藩主 治宝候(はるとみこう)の直筆 |
念仏堂 光明殿ともいう 阿弥陀如来を安置する。江戸時代後期の建立。総欅造り。 |
太子堂 聖徳太子をまつる。 太子は「争いを止めて和の精神を尊ぶ」、「仏教を篤く敬う」などの17条の憲法を定めて政治をあらため、また建築、彫刻、絵画などの技術の向上にも尽くされた。 案内板より |
大門 重要文化財 三間楼門で、その規模は和歌山県では高野山・根来寺に次ぐ大きさといわれている。宝永4年(1706年)の建立とされており、総欅造りである。この大門は数年前に改修工事が行われた。 |
童男堂 和歌山県指定文化財 延宝7年(1679年)の建立とされ、千手千眼観世音が姿を変えたといわれる童男大士が本尊として祀られている。 |
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