西国三十三所巡礼 

西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。

順不同でつないで歩いて行きます。

なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。

 


14番三井寺から15番 新那智山 今熊野観音寺をめざして



2017/4/6   三井寺⇒JR京都駅   14.3km   



スマホのGPSで行程をトレースした。別タグで開きます。
写真と見比べながら御覧ください。

長等(ながら)神社   回廊   
長等(ながら)神社  楼門
大津市内の161号線を歩く。京阪電車の京津線がここでは路面電車として走っている。
関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)             参道を京阪電車が横切っている。


 幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮の蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
 蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。     
                    〜境内の「謡曲蝉丸と関蝉丸神社」の説明板から。
逢坂山 安養寺
本堂には重要文化財 阿弥陀如来座像が安置されている。また蓮如上人の旧跡で上人「身代わり名号石」が残っている。なお、境内にの「立ち聞き観音」は古く東海道名所図会等に記載されて有名である。
                       案内板より
旧逢坂山トンネルは、明治13年6月28日に完成した、日本人技術者だけで始めて造ったトンネルである。全長664.8m、東海道線大津〜京都間の旧線大津(現在の膳所)〜大谷間にあって、大正10年7月31日まで使用されていた。担当技師の國澤能長は、明治4年に見習技師となり、外国人について大阪〜神戸間の線路建設に従事。明治11年、京都〜大津間の工事で主として逢坂山トンネルを担当した。鉄道記念物に指定されている。
関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)上社

平安時代、嵯峨天皇のときに猿田彦(さるたひこ)と豊玉姫(とよたまひめ)をまつり、円融天皇のときに琵琶の名手・蝉丸をあわせてまつったことから音曲芸能の神として信仰されている。もとは逢坂越えの関の守護神としてまつられた。逢坂一丁目に上下の二社がある。
京都府と滋賀県との境辺りの国道1号線を行く。京阪電車と名神高速道路との3本が並行して走っている。
石塔には「すぐ、大佛道、本願寺道」
国立京都博物館は赤レンガ造り。
蓮華王院・三十三間道堂





2017/4/13   JR京都駅 今熊野観音寺   4.6 km   



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九条通を東進し鴨川を渡る。流れる川の水もきれいし、満開の桜もまた。
九条通の鴨川を跨ぐ橋はそのまま鉄道を跨ぐ陸橋になる。奥はJR奈良線、手前は京阪本線。ホームが見えるが東福寺駅。それぞれに鉄道の踏切がありその間が車一台しか止まれない。怖い踏切だ。


間違って東福寺に入り込んでしまった。
9:36 退耕庵
東福寺塔頭。 1346年(貞和2)の創建。応仁の乱で衰微したが、慶長年間(1596-1615)に安国寺恵瓊(えけい)が再興(現在ある客殿はこの時の建築である。関ヶ原の役の前年の造営)。 小野小町ゆかりの恋文を胎内に納めて作った玉章(たまずさ)地蔵と小町百歳像がある。茶室作夢軒は、忍び天丼などがあり、関ヶ原合戦の謀議をしたという。(非公開)
洛東園
寺だと思って写真を取ったが、老人ホームだった。
9:42 栗棘庵(りっきょくあん)            臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭
1294年(永仁2年)東福寺4世・白雲慧暁(はくうんえぎょう)が洛北に創建しました。その後1302年(徳治2年)に名称を聖寿庵に改められるが、焼失しました。 1385年(元中2年)覚山空性(かくざんくうしよう)が再興し、名称を栗棘庵に改めました。その後応仁の乱後に東福寺山内に移され、能登・畠山氏が檀越になりました。
9:43 善慧院(ぜんねいん)・明暗寺(えいあんじ)       臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭
普化(ふけ)尺八・明暗流根本道場として知られている。
9:44 同聚院(どうじゅいん)         臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭
開山は東福寺第129世・琴江令薫。本尊不動明王座像(重文)は、1006年、藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える。他の4明王は散逸し、この像だけが残ったのは火除け像として崇敬が厚かったからという。
同聚院(どうじゅいん)の本堂
大機院
一華院
臥雲橋
臥雲橋から日下門に至る参道。木洩れ陽の下、美しい。
東福寺日下門         京都府指定文化財   
東福寺 本堂
明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和9年(1934年)に完成した。入母屋造、裳階付き。高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。天井の竜の絵は堂本印象筆である。本尊釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作である。                 〜Wikipedia   
東福寺 禅堂            重文
明治43年(1910年)に再建。方丈唐門とともに昭憲皇太后の恩賜建築である。切妻を正面とする禅宗式寺院の典型。                 〜Wikipedia
東福寺 東司(とうす)              重文
室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司(便所)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれる。内部は中央通路をはさんで左右両側に円筒の壺を埋める。
                  〜Wikipedia
wikipedia
東福寺 三門
応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門である(「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味、「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものを言う)。                   〜Wikipedia
東福寺 五社成就宮
東福寺の鎮守社として岩清水八幡・加茂・稲荷・春日・日吉の五社を祀るもので五社明神社とも言う。       案内板から
 東福寺 浴室
前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、長禄3年(1459年)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られる。内部は正面板敷きの上に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口がある。                〜Wikipedia
東福寺に迷って入り込んでしまったが、「京都一周トレイル」を通って、今熊野観音寺に向かう。
このトレイルは京都府山岳連盟が開設したもので、京都市に6コースある。その一つ、東山コースを辿ります。
宮内庁が守る「守修親王墓」「淑子内親王墓」「朝彦親王墓」
解脱金剛宝塔
日本の新宗教団体。1929年に創設された。真言宗系新宗教に分類されることもあるが、神仏混淆色が強く、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされ、文化庁の宗教年鑑では諸教に分類されている。日本の新宗教団体。1929年に創設された。真言宗系新宗教に分類されることもあるが、神仏混淆色が強く、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされ、文化庁の宗教年鑑では諸教に分類されている。
御寺 泉湧寺   大門             重文
慶長年間8江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。

東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
 当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
 大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて帰国した。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。
 したがって当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝〜安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。
 総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。
 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。


15番 新那智山 今熊野観音寺

御詠歌       昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり
宗派         真言宗泉涌寺派
開基         弘法大師
ご本尊        十一面観世音菩薩
創建         天長年間(824〜834
所在地       〒605-0977 京都市東山区泉涌寺山内町32



鳥居橋     下を流れるのは今熊野川
子まもり大師
大切な子供達を護り育んで下さるのが、こちらのお大師さま「子まもり弘法大師」です。
鳥居橋をわたって参道を進み、一番最初にお参りいただけるのがこの子護大師です。弘法大師は観音寺を開創された方でもあります。
稲荷社
稲荷明神は、京都伏見に鎮座され、日本全国の各地に奉祀される穀稲食貨の神です。
稲荷明神と弘法大師との関係はきわめて密接です。大師は東寺の門前に於いて稲を負いたる老人に逢い、これを祀って東寺の鎮守とされました。稲をになっておられたところから稲荷と呼ばれるようになったと言われています。
稲荷祭にあっては、伏見の本社より洛南九条の御旅所に来たり、東寺の南大門より内に入り金堂前で奉幣供養の儀式が行われ、還幸に際しては東寺の慶賀門(東門)にて奉幣供養が行われます。
このゆえに真言宗では稲荷明神を大切にし、また各寺院において鎮守として盛んに奉祀されています。
太子堂
当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。
東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々のお詣りが絶えません。
不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。
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