弊掛神社 |
下千本桜 吉野の山は古くより修験道の霊場。また古くから花の名所として知られ、特に桜は有名で、その地域ごとに下千本、中千本、上千本、奥千本と呼ばれます。吉野山は様々な歴史の舞台でもあり、源義経と静御前が永遠に別れたのがこの地です。また、豊臣秀吉が大花見を開催したことでも知られます。 説明板から |
七曲り下の千本 吉野駅から弊掛神社を経て、吉野山に登る急坂を七曲りといいますが、この付近一帯に植わっている桜が下の千本で、昔の一目千本という眺めもこの辺りのことをいったものです。元禄の頃の「吉野紀行」という書物に「日本が花」七曲りなど過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め植えて蔵王権現に奉る。みずからも又桜 三十本を植えさせて いつかまた訪ふといひつつ み吉野の わが植えおきし花を来て見む とあり、同じ頃の貝原益軒の「和州巡覧記」という本にも「七曲り、この坂に村童ども多く桜苗を売りて、すなわち唐鍬をもって植える。下の谷を桜田という名所なり」と書かれています。こを見ると吉野山に登ってくる人は、ここの桜は蔵王権現に備えるためにあるのだ。という考え方が徹底していたようですし、また地元の人も桜苗を栽培していた事がわかります。それにしても、今は昔ほど桜を大切にしようという気風が、うすれてきているのは残念ながら事実です。それは蔵王権現に対する信仰のすたれというということもあるでしょうが、それに代わって自然と伝統をより大事にしようという、素朴な心を養うことを、もっと真剣に考えられて良いはずです。この付近は、そういうことも併せて考えさせるところでもあるのです。 説明板から |
黒門 黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもあります。 こういう様式の門を高麗門といい、城郭によく用いられています。昔は公家大名といえどもこの門からは、槍を伏せ馬を降りて通行したという格式を誇っていました。ちなみに金華山というのは吉野山から大峰山に至る峰続きを指し、修験道関係の寺院塔頭が軒を連ねていました。それらの総門が黒門だったのです。 現在の黒門は昭和60年秋、金峯山寺本堂蔵王堂の大屋根大修理にあわせて改修されたものです。 |
弘願寺 山門 |
弘願寺 八起觀音菩薩 |
町並み |
金峯山寺(きんぷせんじ) 銅鳥居(かねのとりい) 創立年代不詳。俗に聖武天皇の東大寺大仏建立の余銅をもって建立されたとの伝承がある。太平記などの文献に1348年の兵乱で焼亡したとの記述があり、その後再建されたものと考えられる。1706年の火災に類焼し、正木を焼いたが1711年に再興されたことが記録されており、銅製の鳥居としては現存最古のものである。高さ8.2m、柱間隔7.4m、柱径1.1mです。 この鳥居は、俗界と浄域との結界であり、仏道修行を発心するところとされる。修行者たちは、ここで俗界を離れて修行を行う心を奮い立たせることになる。また、山上ヶ岳頂上(大峰山)にある山上蔵王堂までの間にある発心門・修行門・等覚門・妙覚門と続く金峯山4門の第1門であり、安芸宮島の朱塗りの木の鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居の一つとされる。 |
金峯山寺 仁王門 仁王門は、重層入母屋造、三間一戸瓦葺です。建立後、南北朝1348年(正平3年)に足利尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の兵火で焼かれたが、1455年(康正元年)再建されました。 なお、本堂の『蔵王堂』が南面しているのに『仁王門』は北面しています。これは大峯山へ北側から逆峯(ぎゃくぶ)する『当山派』の修験者に入口なので北面し、また、熊野から大峯山へ順峯(じゅんぶ)する『本山派』には出口です。 |
金峯山寺 観音堂 |
金峯山寺 愛染堂 |
金峯山寺 鐘楼 |
金峯山寺 蔵王堂と四本桜、銅灯篭 |
金峯山寺 威徳天満宮 |
金峯山寺 後醍醐天皇導きの稲荷 |
南朝妙法殿(吉野皇居跡) |
仏舎利宝殿 |
東南院 山門 |
東南院 多宝塔 江戸時代初期に和歌山県海南市の野上八幡に建てられたもので、1937年(昭和12年)に移築された。堂内には藤原時代中期の造られた大日如来、毘沙門天、不動明王などが祀られている。 |
東南院 本堂 |
吉水神社 山門 |
吉水神社 拝殿 |
勝手神社 鳥居 |
勝手神社 境内には、源義経と別れた静御前が捕らえられ、社前で法楽の舞を舞ったとされる静御前の舞塚がある。現在の社殿は正保2(1645)年に再建されたもの。社宝としては静御前の装束、義経と鎧とされるものが所蔵されている。背後には袖振山がそびえ、大海人皇子が奏でる琴の音色によって天女が舞い下りたと言い伝えられている。 |
桜本坊 山門 |
桜本坊 |
桜本坊 |
桜本坊 |
桜本坊 聖天堂 |
竹林院 山門 |
竹林院 群芳園と本堂 |
竹林院 |
善福寺 山門 |
善福寺 本堂 葬儀を行わず祈祷を旨とする修験寺院が多い吉野山にあって、江戸時代の初期から吉野山の菩提寺として存立していたと思われます。 |
喜蔵院 山門 |
喜蔵院 本堂 |
如意輪堂 山門 |
如意輪堂 本堂 専横の北条幕府を倒し、建武中興を成し遂げた後鳥羽天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ御幸以来4年間、吉野の行宮に過ごされました。1339年病床に就かれ「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂は常に北闕(京都)の天を望まん」と都をあこがれ、遂に崩御されました。天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったが、塔尾陵です。次帝後村上天皇の1347年12月楠木正行公の一族郎党143人が、四條畷の決戦(足利の武将高師直との戦い)に向かうにあたり、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、過去帳に姓名を記し最後に正行公は御堂の扉に かえらじとかねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる と辞世の句を残して四條畷に向かいましたが衆寡敵せず、弟正時とともに最後をとげました。 現在の建物は約350年前の再建で、正行公の歌をとどめた扉は寺宝として、宝物殿に保存されています。 |
如意輪堂 役の行者堂 |
如意輪堂 鐘楼 |
如意輪堂 |
如意輪堂 後醍醐天皇の御陵 |
如意輪堂 至情塚 後村上天皇に仕えた女官に、弁内侍と言う者があった(日野俊基の娘)。日ごろ から天皇の寵愛を受けていたが、ある時、高師直が自分の妾にしようとして内待を 誘ったが、途中運よく通り合わせた正行によって難を救われた。その因縁もあって、 天皇より正行へ給わらんとしたが、正行は戦に出ることをおもって とても世に永らふべくもあらぬ身の仮りのちぎりをいかで結ばん と断った。そしてその翌年、四条畷に戦死したのである。内待は悲しみの余り、吉 野郡龍門村龍門寺に入って髪を切り、尼となって正行の菩提を弔った。 その時の歌に 大君に仕へまつるも今日よりは心にそむる墨染の袖 とあり、その黒髪の一部を埋めたのが、この至情塚だと言われている。 |
如意輪堂 楠木正行公のお手植え「木」 と 後醍醐天皇の腰掛石 |
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