岡山市の社寺仏閣等巡礼の足跡

2018/12/18   
岡山城

 岡山市北区丸の内2-3-1
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、 旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、 領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。
 秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。

石垣    大石の使用
岡山城の建設当時には、大名が勢威を誇る目的で石垣に巨石を集めて、築くことが流行していた。岡山城の大石はこの辺りに多く使われている。また、石垣の石は瀬戸内海に浮かぶ犬島などから運ばれた。                         説明板から
右隅は宇喜多秀家期の石垣に被せて造られており、関ヶ原合戦後の小早川秀秋期か、前池田期に築かれたものと見られる。上部は不明門を建てたときに積み足され、中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理を受けている。                     説明板から
不明門
表書院(藩庁)の南端から本段(城主住居)へ上がる石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入り口を固めた大形の城門である。普段はこの門は閉ざされていた事から「不明門」と呼ばれた。明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。     説明板から
天守閣の礎石
天守閣は昭和20年6月の戦災で消失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りに配置している。                  説明板から
天守閣
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。        説明板から
六十一雁木上門
本段から川手に通じる門で、前方の石段がもとは61段あったことからこう呼ばれたらしい。
                                           説明板から
穴蔵
香川県豊島産の凝灰岩の切石で造られており、幅3.8m、奥行2.9m、深さ2.3mあります。もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられています。      説明板から
月見櫓
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築に際して、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。二階の城内側は廻り縁側を設けて開け放した佇まいで、日常の生活にも使用できるような構造となっていて、名前のとおり月見にも適していました。二棟しか残っていない当時の建物の一つで、重要文化財です。             説明板から
廊下門
上屋は本段(住居)と中の段(藩庁)を結ぶ城主の通路として使われたためこう呼ばれた。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。               説明板から
廊下門
本丸の搦め手にある城門で、門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を設けていました。
                                 説明板から
後楽園から見た天守閣

2018/12/18   
後楽園


岡山市北区後楽園1-5
全体面積    144,000平方メートル
芝生面積     19,600平方メートル
曲水全長         約640m

水戸偕楽園、金沢兼六園と並ぶ日本三名園の一つです。
岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。 また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が数多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。 昭和27年には後世に伝える歴史的文化遺産として「特別名勝」に指定されました。

鶴鳴館
延養亭
藩主が後楽園を訪れたときの居間として、使われました。沢の池、唯心山、借景の操山と、園内外の景観が一望できる、後楽園の中心的建物です。           パンフレットから
茂松庵(もしょうあん)
築庭当時、この辺りは山桜や楓、松で彩られた林で、建物は花葉軒(かようけん)と呼ばれていました。歴代藩主は、花や紅葉をながめてくつろぎました。明治時代になって茂松庵と名が変わり、戦災で焼失後、園内で最初に復元されました。                  説明板から
御舟入の護岸と雁木
この遺構は平成23年に築庭当時の絵図を参考に発掘調査したところ絵図とほぼ同じ位置に雁木を発見し、翌年さらに調査区域を広げて遺構を確認したものです。雁木は上2段を除いてそのほとんどが残っており、歴代藩主が出入りしていた当寺の姿を展示しています。
御舟入と雁木は築庭以来ほぼ同じ位置に伝わってきましたが、記録では改修やしゅんせつを重ね、また雁木の石材も上下で違いがあることから幾度かの改修を重ねたものと考えられます。
雁木は1段目が間口約10mで5段目からは約5mとなり、その上部は北東に向けて狭くなり、御成御門までは通路が延びていたようです。                  説明板から
地蔵堂
地蔵堂横には築庭当時の樹木と推定されるムクノキが残っています。     説明板から
康池軒(れんちけん)
戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えています。この建物からは沢の池越しに見える松林や曲水と池の段差など、起伏に富んだ景観を眺めることができます。                説明板から
唾心山から沢の池を望む

唾心山
池田綱政の子、継政が作った約6mの築山で、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。山腹には唯心堂があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、初夏には紅白の花で彩られます。                       説明板から
唾心山から沢の池を望む
新殿
幕末ころにできた建物で、もとは新御殿と呼ばれていましたが、明治時代からは新殿と呼ばれるようになりました。高床となった十畳の座敷からは、茶畑や稲田の田園風景のほか園内南西の景色を広々と眺めることができます。                        説明板から
船小屋
中之島と橋
慈眼堂(じげんどう)
池田綱政が元禄10年(1697)に池田家と領民の繁栄を願って建立し、観音像を祀っていました。境内には、花崗岩を36個に割って運び、元の姿に組み上げた烏帽子岩、仁王門、板張りの腰掛などが伝わっています。                            説明板から
寒翠細響軒
文化12年(1815)に、当時の藩学校教授・万波醒盧が背後の松林の緑と前面に広がる沢の池の清らかな水の趣にちなんで名付けました。ここからは城と庭園が一帯となった雄大な景色を眺めることができます。                            説明板から

2018/12/18   

岡山神社

岡山神社は宇喜多氏以来、岡山城の守護神として歴代の城主の信仰が厚かった神社で「酒折宮(さかおりぐう)」と呼ばれていました。池田家文庫に残る「酒折宮社記」によると、現在の岡山城本丸の地にあったものを、宇喜多氏の岡山城築城に伴って現在の地に移されたとされます。


本殿  と   木製格子が交差するハーフミラー(Dan Graham 作)
この組み合わせは何を意味するんだろう。単に、工芸作品に場所を提供しただけのものなのか?
随神門
池田継政によって延享2年(1745)に造立された、三間一戸の八脚門で、岡山藩直営の普請になる18世紀中頃の基準的建築物です。岡山城下で岡山空襲でも焼け残った数少ない江戸時代の建物です。
                             説明板から

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