マラソンと私


年金生活 (2017.4〜    )
毎日が日曜の生活になった。朝のJOG(Walking)は出発時刻が遅くなってしまうが、続けていくつもり。
コナミでほぼ毎日ランニングマシーンに30分または60分乗っているが、ベルトが動くから仕方なくゆっくりと走っている。屋外では走りが持続できなく、すぐに歩いてしまう。


再雇用生活(2012.4〜2017.3)
再雇用で週4日勤務に変わった。週の真ん中の水曜日を休業日にして、天気が良ければLSDとして、六甲山全山縦走路にも繰り出している。

篠産時代(1995.4〜2012.3)

着任式の前日に六甲山の全山縦走タイムトライヤルを走り、 足がパンパンで臨んだのが懐かしい。以降、走りに関しては一年目が最も充実していたように思う。二年目以降、 時間が十分にとれず満足な走り込みが出来ない。(これ いいわけ)毎朝、5時から武庫川ジョギングコースを 走ることにしている。往復7kmをゆっくりと、40〜50分かけて、一汗かくと ”軽い脱力感” を感じ体から余分な力が抜けて気持ちがいい。練習量の割にタイムが伸びない。逆に、レースの後半脱力感 に見まわれ極端にタイムが落ちてしまう。年齢的な坂にさしかかったのか、少し、考えてしまう。車での通勤になって、帰りにちょっと一杯ということが無くなり、ちょっと寂しいが、体にはいい。
月間走行距離  100〜300km(平均 200km)

県工時代(1987.4〜1996.3)

120人近い職員のいる大規模校に転勤。大勢いるだけに名人・迷人がいろいろとおられた。朝登校すると中庭 で裸で汗を拭いていた先生。はじめは、変わった人がいるもんだなあと思っていたがだんだんと惹かれていった。 その人に、またその人がやっていたマラソンに。
三田からの電車、徒歩、自転車で片道約2時間を要して毎日通勤し、時間的に走る時間は平日にはなかった。休日 に付近をジョギングした。だんだんその距離を伸ばして、三田のマスターズマラソンに初めて出たのが、’94年。
月間走行距離  0〜20km

相産時代(1984.4〜1987.3)

教育界へトラバーユして最初の3年間は単身赴任。まだまだ、本格的には走っていなかった。ボート部の顧問と して、部員が揃わないときはオールを握った。冬の間に基礎体力を付けるために、生徒にはローイング・マシー ンによる補強、ランニングなどを行わせた。自分自身も休日には、@相生高校裏の墓地公園内 A相生湾沿いに 国民宿舎相生荘までの往復コース B山陽自動車道の測道 などを走りました。
3年目の校内マラソン大会に生徒と共に走ったが、後半ばててフラフラでゴールしたのを覚えている。 一般の大会にはまだ出場していない時代。 
月間走行距離  0〜20km

HZ時代(1974.4〜1984.3)

走り始めたのはこの年代から。ただし、不定期。気が向けば程度。
大学卒業後、会社人間で仕事をバリバリした(?)時代。ゴミ焼却プラントの総括設計部門に最初配属された。 1〜2年間、新任教育・見積もり補助作業・資料整理などで過ごした。その後、O市環境事業局向けのO工場の焼却プラントを見積設計から実施設計までを手がけた。サブの立場で仕事の難しさや厳しさを教えられた。仕事の内容は環境工学の分野から内燃機、ボイラ、タービン等の機械工学の分野、電気工学、計装・制 御工学までと広く、苦労した。また、一つのプラントの総括設計といっても、工期が長く、一つの仕事を覚えるのに4〜5年かかってしまう。それでも、100億のプラントをずっと見てきて、最後の引き渡し性能試験の時には感激したのを今も覚えています。
その後、職制移動で、排ガス処理部門に移った。当時、塩化水素の規制が既設炉にも、適応された。各地の 未処理プラントを訪れては、排ガス処理プラントを薦め、見積設計・実施設計と目の回るような仕事に追われた。北海道・T市、愛媛県・M清掃組合、宮崎県・M市、佐賀県・T市、福岡県・K市、愛知県・I市、 静岡県S市、東京都・N清掃工場、同・S清掃工場、同・O清掃工場、同・A清掃工場、神奈川県・O市、 同・H市I市清掃組合、群馬県・N市、宮城県・S市などなど、全国各地を廻らせてもらった。単年度内の工事を最初から最後まで短い期間内で、見届けられると云う点で面白かったし、勉強にもなった。出張ばか りで、しんどい面もあったが、ノミニケーションという楽しみも覚えたこの時代だった。

豊中市南桜塚の単身寮は文字通り「ウナギの寝床」的なモノで長い時間居ると気が滅入りそうで、時た ま運動不足解消も兼ねてジョギングに出かけた。といってもこれは、休日のみ。それも、たまの休日のみ。
寮から1kmぐらいに服部緑地公園があり、園内やその外周道路をよく走ったものです。まだ、緑地公園 の周りは竹藪だらけで、筍シーズンに藪に迷い込んで筍泥棒に間違えられたことも。

あれだけ、出張していたのに旅先でのジョギングの経験は全くなし。思いつきもしなかった。全く、惜しいことだ。
その当時まだ、一般の市民向けのマラソンがあるとは知りませんでした。また、その後そのマラソンにはまってしまうとは、意外。 


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