丹波市春日町:黒井城山〜千丈寺山登山 |
DATE & TIME : 2016年3月16日(水) 9:00から14:40 ROUTE : 弥名寺〜興禅寺〜黒井・城山〜千丈寺山〜大野 Mountain : 城山 356.8m 千丈寺山 346m |
興禅寺 | 興禅寺は、山号を大梅山といい今日は、曹洞宗の別格地で本尊には仏師春日の作・釈迦如来を祀り、七堂伽藍がよく整った名刹です。 戦国時代、この寺域一帯は背後の山城・黒井城(国指定史跡)の下舘(しもやかた)でしたが、天正7年(1579年)8月、明智光秀の丹波攻めで落城。その戦後処理と西丹波一円の統治のため、ここに入ったのが光秀の重臣・斉藤内蔵助利三です。今でも斉藤屋敷の伝承が残り、水濠と高い石垣、白の練り塀のたたずまいは当時の景観を良く残しています。 母・お安との間に生まれたのがお福(後の春日局)で、寺内にはお福の「産湯の井戸」や「腰かけ石」など残り幼い頃の春日局をしのぶことが出来ます。 (丹波市観光案内掲示板より) |
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興禅寺入口の門は朱色が鮮やか。良く見かける門との違いは2階建て構造である点。 | 門をくぐって正面にドーンと位置する本堂。 |
弥名寺 | 黒井駅から城山に向かって小学校の下に位置するのが、弥名寺。浄土宗の寺院。 スケールの大きい竜の彫り物で有名とか。 |
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彫り物で飾られた門。 | 本堂は興禅寺のものとよく似ている。 |
黒井城 | 黒井城は、豪勇をうたわれた赤井(荻野)直正が城主で、戦国時代の丹波を代表する山城です。 赤井(荻野)直正は、自らを悪右衛門と名乗り、近隣の有力武将を従え、奥丹波三郡(氷上郡、天田郡、何鹿郡)を領し、また度々但馬へ侵攻を続けました。天下布武をめざす織田信長が、明智光秀に丹波平定を命じると、この黒井城でも、明智の大軍と黒井勢との間に、ニ度にわたる激しい攻防戦がくり広げられました。苛烈な戦国時代の遺構を、山中いたるところに残す黒井城跡は、貴重な「戦国の城」として国の史跡に指定されています。 赤井(荻野)悪右衛門直正は、後屋城主赤井時家の次男として生まれ、幼名を才丸と言い、当時朝日城に拠っていた士豪荻野十八人衆に迎えられて盟主となり、荻野姓を名乗りました。 その後、黒井城主となった直正は、黒井城の改修に手をつけ、防御を固めると共に、その勢威を丹波一円に広げ、また但馬へも進出して、その勇猛ぶりは丹波の亦鬼と呼ばれました。当時の名将十三人の内の一人にも数えられています。 天正四年(1576)、明智光秀の黒井城攻めでは、盟友であった八上城波多野秀治と諜り、機をみて双力から明智勢を挟み撃ちにし敗走させました。後にこの作戦を「赤井の呼び込み戦法」と呼んでいます。 天正6年(1578)、反織田勢力の一翼を担った悪右衛門直正は病没。 内室は前関白近衛前久の娘か妹と伝えられ、夫妻の位牌は黒井の興禅寺に祀られています。 明智光秀 第1回の黒井城攻略で赤井、波多野勢の奇襲雨を受け敗北した明智光秀は、再度の攻略の策として鐘ヶ坂に金山城を築き黒井城と八上城を分断。ここを拠点にして八上城を落城させました。 天正7年(1579)、孤立した黒井城もまもなく落城。明智光秀の丹波平定はここに終わりを告げました。 城下には明智光秀が陣城とした茶臼山遺跡、水色桔梗の旗をなびかせた「幟立て」、軍兵が勢揃いした「太刀野」などの地名が残り、明智勢黒井城攻めの名残をとどめています。 (丹波市観光案内掲示板より) |
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太鼓の段跡 | 椿の群生地を経由して東出丸跡へ向かった。 | 二の丸から本丸を望む。 | 二の丸から神池寺方面を望む。 |
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二の丸跡。 | 二の丸から本丸に上がる段の石垣。 | 本丸跡。 | 保月城跡。 |
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本丸西の張出し。石垣。 | 西の丸跡。 | 千丈寺山の頂上。 | 千丈寺山の頂上。 |
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