関西花の寺25ヶ所霊場めぐり 

関西花の寺25ヶ所霊場会
二十世紀の後半、昔から「ボタン寺」、「アジサイ寺」など、「花の寺」と称される関西一円2府4県の25ヵ寺が集まって「関西花の寺二十五カ所霊場会」が結成されました。 25ヵ寺は宗旨宗派の垣根を超えて集まった花がご縁のお寺です。25ヵ寺に咲く四季折々の美しい花を媒介にして、一般の人々とお寺との接点をつくり出し、 それを契機に少しでも世の中のお役に立つような、 明るく健やかな社会づくりや、人々の心豊かな人生づくりに貢献できるようにとの願いで結成されたものです。
                            パンフレットから

 

4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

2020/5/13   自宅⇒高山寺   70.0km   


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高座神社(かたくらじんじゃ)      丹波市山南町谷川3558
高座神社の本殿は、国重要文化財で江戸時代の宝永2年(1705)に建てられた五間社流造の立派なものですが、境内にはそれ以外に県指定文化財もあります。それが県の天然記念物では唯一の樹種、フジキです。 あまりなじみのない木の名前ですが、小さな葉が藤の葉に似ているため名付けられたといわれています。別名・ヤマエンジュ。マメ科の植物で花は白く、その実は枝から豆のサヤがぶら下がるように実ります。 高座神社のフジキは、幹周り420cm、樹高20mの巨木で、全国的にもフジキの巨木はあまり知られておらず、貴重な樹木となっています。 
               説明板から
大鳥居
随神門
石造鳥居と拝殿
この鳥居は、高さ4.57m、柱の下部芯芯3.80mの、すっきりとした形の良い明神鳥居であるが島木の鼻のきりかたはほぼ鉛直で笠木両端の反り増しは少ない。
フジキ
小さな葉が藤の葉に似ているため名付けられたといわれています。別名・ヤマエンジュ。マメ科の植物で花は白く、その実は枝から豆のサヤがぶら下がるように実ります。 高座神社のフジキは、幹周り420cm、樹高20mの巨木で、全国的にもフジキの巨木はあまり知られておらず、貴重な樹木となっています。 
本殿   国指定の重要文化財
本殿を飾る鮮やかな彫刻
本殿を飾る鮮やかな彫刻
今の本殿から少し離れたところに立つ石鳥居跡


4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

竹林山常勝寺      丹波市山南町

                説明板から
仁王門
仁王
仁王
参道石段は長く、由緒ある大きな寺だったのでは?
参道横に並ぶ石仏群
参道のど真ん中に立つ石灯籠
本堂
本堂に向かって右に立つ寿老人
本堂に向かって左に座るなで仏    コロナ騒動に今、撫でるのは怖い
薬師如来堂
鐘楼

4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

弘浪山高山寺      真言宗 大覚寺派     丹波市氷上町
 弘浪山頂に、天平宝寺元年(757)に法道仙人により開基され、昭和33年奥常楽の地に移築しました。ご本尊は十一面観音菩薩で、仁王門は重層で、三手先の組物や、通し貫などに東大寺様式が偲ばれます。 広大な境内の緑の中に朱塗りの山門がひときわ美しい。鎌倉時代の阿弥陀如来像、三千仏掛軸、俵藤太秀郷一代記絵巻物、高山寺縁起、両界曼陀羅図などの文化財があります。              説明板から
山門
青もみじの中に続く参道
鐘楼
本堂
賓頭盧尊者     「なで仏」とも称される仏さんですが、コロナウィルスが怖くて撫でたりできません。
虚空蔵菩薩


4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして


2020/5/20   高山寺高源寺   21.2km   


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独鈷の滝      丹波市氷上町香良
               
               弘法大師伝説の滝。
               2014年の豪雨災害による復旧工事がまだ行われていた。

滝へ導く道はきれいに整備されていた。
独鈷の滝
独鈷の滝
浅山不動尊
浅山不動尊
浅山不動尊
夫婦杉


4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

岩瀧寺      丹波市氷上町香良

緑に覆われた参道に立つ門柱
大正門へ導く参道
大正門の二階は鐘を吊るした鐘楼。
本堂側から見た大正門。鐘の突き棒も見える。
本堂は茅葺き。
大きな庫裏。この庫裏もブリキ葺きする前は茅葺きだったろうと思う。
庚申堂(左手前)と大師堂(右奥)


4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

円通寺      丹波市氷上町
             宗派  曹洞宗
1000石の寺領と200ヵ寺の末寺を持ち、250人の修行僧で溢れた円通寺も、明治新政府の「神仏分離令」による「廃仏毀釈運動」で荒廃が進行します。そこで当時の第40世「日置黙仙禅師」は東奔西走、「円通寺営繕永続講会」の設立を成し遂げ、その結果16年の歳月をかけ、円通寺は見事に復興をはたします。  
           


瓦葺きの山門。その手前の向かい合った建屋には天狗が納められている。
増長天。
反対側の持国天とともに二天として祀られています。この形式は、中国から来たとされていますが、江戸時代には、二天を保護神として祀るようになった。お寺を守る(仏法を守る)ために祀られています。
増長天とは、元来四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のお一人で、古代インドで方位の守護神として位置づけられ、須弥山の四方四州を守る守護神と位置づけられ、その中腹で仏法を守っています。甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿をしています。
持国天
反対側の増長天とともに二天として祀られています。この形式は、中国から来たとされていますが、江戸時代には、二天を保護神として祀るようになった。お寺を守る(仏法を守る)ために祀られています。
持国天とは、元来四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)のお一人で、古代インドで方位の守護神として位置づけられ、須弥山の四方四州を守る守護神と位置づけられ、その中腹で仏法を守っています。 甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿をしています。唯一、兜をかぶっています。
放生池
石段状の参道
塀の五本線。
塀の五本線は、天皇家との所縁を表します。また、本堂の屋根や襖、庫裏の襖等に足利家の「円に二引きの紋」、近藤家の「近衛牡丹紋」が多く見られます。これは御開山が「足利尊氏」の第4子:英仲法俊、 第2代が関白「近衛道嗣」の第3子:牧翁性欽」であることによります。1382年「後円融天皇」の勅命によって将軍:足利義満がこの寺を建て、初代、2代と武門と公家の最高位者の子弟を送り込んだことは、 当時の容易ならざる事情が伺えます。後に、「丹波攻め」でこの地方の寺社仏閣を悉く焼き払った明智光秀も、郷士:荻野喜右衛門の説得と円通寺の貫禄に暴挙を謹んだと伝えています。
鐘楼
本堂「施無畏殿」
建物は御殿造りで、仏閣としては当地方最大のものです。入り口に土間がある珍しい構えで、「武者隠し」の目的があると言われています。今の建物は庫院とともに1844年の再建です。
「施無畏」とは観音様の別名で「人々の悩みや苦しみを取り去り、幸せに導いて下さると」いう意味があります。
ご本尊は秘仏「如意輪観世音菩薩像」です。1382年の円通寺開山に合わせて後小松天皇が南北朝の統一を祈願し、「一刀三礼」自らお彫りになったものです。御開帳は50年毎に行われます。
庫裏
躍然遠挙の碑
明治維新の功労者「山岡鉄舟」が日置黙仙禅師の功績を讃えて筆をとったのがこの「躍然遠挙の碑」です。今は苔むしていますが、寺には立派な原本が残されています。また日置黙仙禅師はその後、幾多の海外教化活動等の後、大本山永平寺にて曹洞宗管長として、仏教会全体の再興に多大な功績を残します。
不動明王立像
仏教では如来の使者としての性格が与えられ、後には大日如来の憤怒の相に化身したとされる像で、火焔で汚れを焚き浄め、大衆を守ると信じられています。その姿は、一般に右手に剣、左手に索を持ち頂髪を左肩に垂れ、口には牙があり両目を見開いた尊像です。
イトザクラ
タブノキ
水琴窟


4番 西天目瑞厳 高源寺をめざして

遠坂神社      丹波市青垣町               
              

石鳥居
拝殿



2017/10/26  
 
4番 西天目瑞巌山高源寺

宗派:  臨済宗中峰派(りんざいしゅうちゅうほうは)の本山
開祖:  遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師
創建:  1325年(鎌倉時代)

開山の遠谿祖雄禅師は、当地青垣町の遠坂地区にあった山垣城(やまがいじょう)の城主足立遠政(あだちとおまさ)公の孫の光基(みつもと)の三男です。遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、 1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師(ちゅうほうこくし)のもとで約10年修行をして悟りを開きます。そして、帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建します。
1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。そして、全国に末寺を持つ大本山となりました。
 しかし、天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失しました。その後、享保の始めに天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が再興し、1799年には、 弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っています。
 建物は現在、惣門・山門・仏殿・方丈・鐘楼・多宝塔などがあります。
 また、紅葉の名所としても知られています。


惣門
惣門は、弘巌玄猊禅師が織田藩の援助を得て建立したものです。正面の額には、弘巌玄猊禅師の筆による「丹丘勝処(たんきゅうしょうしょ)」の額があります。
                  説明板から
参道
山門
当山の山門は別名「紫鳳楼(しほうろう)」と呼び、二階には、お釈迦(しゃか)様と十六羅漢(じゅうろくらかん)をお祭しています。
 また、二階の天井には、弘巌玄猊禅師筆によります、天女や経典の画が描かれています。
この建物も弘巌玄猊禅師の建立です。            説明板から
山門    本堂側から見ています。
仏殿
当山の中心をなす建物で、「灋王殿(ほうおうでん)」ともいいます。中には、高源寺の本尊「釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)がお祭してあります。
本尊「釈迦如来坐像」は、天台宗の僧・恵心僧都の作と伝えられ、平安末期から鎌倉時代の作とされています。また、本尊に向かって左側には、後醍醐天皇の法衣姿の像をお祭しています。
また、右側には、地方大名などの位牌が安置してあります。この建物は、中興の天岩明啓禅師による建立です。               説明板から
鐘楼
三笑橋
その由来は、中国虎谿にて、遠淵・開山・遠谿禅師らの三法師が、」虎の鳴く声を聞いて大笑いした故事に基づくと言われています。
多宝塔(三重塔)
多宝塔(三重塔)
中は「輪蔵(りんぞう)」という造りになっていまして、経典が納めてあります。また、正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天(びしゃもんてん)」をお祭しています。
この建物も弘巌玄猊禅師の建立によるものです。         説明板から
方丈
方丈とは、天竺の維摩居士の居室が方一丈であった故事から、住職の住まいをいい、本堂、客殿を兼ねますが、当寺では庫裏も兼ねています。ここで法要等の行事が行われます。 また、ここには開山遠谿祖雄禅師・開山禅師の師である中峰国師・中興天厳明啓禅師像を始め、歴代の住職等をお祭しています。
また、勅願所のため、後円融、後柏原、後水尾、後鳥羽天皇などの御宸筆、歴代天皇下賜論旨等を所蔵しています。
この建物も弘巌玄猊禅師の建立によるものです。         説明板から
大痩嶺
心字の池
この池は当寺庭園の中心をなす、心字の池です。永正14年3月、後柏原帝の勅願があり勅使下向。智傅禅師にその名園を嘉賞されました。しかし、天正年間に赤井、足立氏の合戦の兵火を罹り、庭園も荒廃しました。 その後、再中興天厳明啓禅師の代に領主織田信休公に請い造園を計画、弘厳禅師によってかんせいしました。しかし、今残っているのは、その一部にすぎません。      説明板から
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