「鯖街道」の由来 朽木村に通ずる街道は、いくつかあるが、いずれの街道も行き止まりの道はなく、それぞれが京都へ、琵琶湖へと通じている。 1570年、織田信長が越前の朝倉攻めの際、近江の浅井長政の挟撃にあい、朽木街道を京都へ逃げ帰ったことは広く知られている。この様に政治的に重要な街道とともに、経済的にその時代、その地域を支えてきた街道も数多い。その一つが「鯖街道」である。日本海の海産物を京の都に運ぶために使われた道で、特に若狭の小浜港で水揚げされた鯖が最産物の主なものであったことから、これらの運搬に使われた街道を総称して「鯖の道」と呼ばれた。若狭と京都を結ぶ街道はいくつかあったようであるが、現在、「鯖の道」といえば、上中から熊川、保坂を経由して市場に入り、大原を通って、京都に至る街道を指しており、その大部分が国道367号線となっている。 中世以降、この街道はまた湖西街道(現在の161号線)の間道としても重要であったようである。この街道はいつ頃開かれたかは、定かでないが、おそらく平安時代初期から明治になって湖西道路が整備されるまで、約1000年の間、若狭の一塩鯖がこの道を通って運ばれ続けた様である。 〜〜〜朽木 案内板より 〜〜〜 |
一日目 2016年7月1日(金) 京都・八瀬比叡山口〜大原〜途中峠〜花折峠〜葛川〜朽木 42.0km
二日目 2016年7月2日(土) 朽木〜保坂〜熊川宿〜三宅〜天徳寺〜小浜 40.0km
2016/07/02 二日目
朽木〜保坂〜熊川宿〜三宅〜天徳寺〜小浜 40.0km
始点: 朽木 グリーンパーク想い出の森 5:00 〜 終点: JR小浜駅 14:20着 9時間20分
帰り JR小浜 14:24発→JR東舞鶴 15:15着 15:17発 → JR綾部 15:53着 15:57発→JR福知山 16:08着 17:05発→JR三田 18:38着
旅費 JRのみ 2590円
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5:00 グリーンパーク想い出の森 「山荘くつき」を薄暗い中を出発。 |
朽木市場の街並み
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5:38 蛭子神社 蛭子命(ひるこのみこと)を祭る当社の創建年代は不明ですが、街の中心部に鎮座し、市場の守り神として商工業者から「えべっさん」と呼ばれて、崇敬されています 〜案内説明板から〜 | 5:39 熊瀬両家(仁右衛門家、伊右衛門家) 室町時代後期の文書によると、市場には米・魚・饅頭・豆腐・炭・綿・金物・桶・傘・呉服・雑貨などを扱う商家や医者・宿屋・風呂屋・質屋・染物屋・駕籠かきなどの業者がいたと言われています。 とりわけ、熊野両家は酒造りや醤油造りを本業とする一方で、藩の御用商人として保護を受け、幅広い商業活動を行っていました。 〜案内説明板から〜 | 5:41 丸八百貨店 大正ロマン漂う外観がシンボルで、昭和初期の建物として国の登録有形文化財に指定されています。 現在は朽木の歴史や文化の情報発信拠点として運営されており、鯖街道の資料展示のほか、無料休憩所、特産品の販売や喫茶スペースとして活躍しています。 |
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5:44 水路と川戸(かわと) 市場の街路のかたわらには必ず用水路が見られます。これは江戸時代の始めに整備されたと言われ、日常は種々の洗い物をするのに用いられ、夏には道路に打ち水をして涼を取り、冬には雪を溶かすために利用されました。また、火災が発生した際には消火用水として機能しました。 〜案内説明板から〜 | 5:49 旧郵便局舎 昭和13年建築。伝・ヴォーリズ設計の郵便局舎で、永く村人に親しまれてきました。 〜案内説明板から〜 |
信長の隠れ岩
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6:14 信長の隠れ岩 戦国武将・織田信長は1570年4月、越前の朝倉義景を討伐するため敦賀へ侵攻していましたが、娘婿である浅井長政が裏切った、との情報を得て急きょ撤退を決意、同月30日に京都へ引き返します。その退路として通ったのが高島市今津町保坂から大津市葛川へ抜ける裏ルート「朽木超え」でした。 信長が来ることを知った当地の領主・朽木元綱は甲冑姿で出迎えようとしました。この武装姿に驚いた信長は同行の松永久秀と森三左衛門(可成)に元綱の真意を確かめに行かせます。そして元綱に敵意が無いことを確認できるまで、ここ三ツ石の岩窟に身をひそめて待機したと伝えられています。 平服に着替えた元綱は、信長を下市場の圓満堂でもてなした後、朽木城で宿泊させ、翌日京都までもの警護役も努めました。 〜案内説明板から〜 |
保坂へ
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6:41 高島市立朽木駐学校 学校林。 杉約1700本は、すべて朽木東小学校、朽木中学校共用体育館づくりに活用します。 伐採跡地には、朽木の小中学生の皆さんとともに、杉だけでなく様々な広葉樹も植栽し、小中学生との協働による森林づくりをめざしていきます。 〜案内説明板から〜 | 8:00 高島市・浅野神社 |
熊野宿
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9:25 熊川宿 小浜から熊川を経由し、京都へ至る街道はr若狭街道jと呼ぱれ、若狭・京都の文化交流接点として重要な役割を果たした。1570年、織田信長は越前・朝倉義景を攻める際、秀吉と家康を従えこの街道を通り、熊川宿で宿泊した後、敦賀へ向かった。1589年、領主浅野長政がこの熊川を諸役免除すると、江戸時代には、200戸を超える宿場町となり大いに栄えた。熊川宿は街道に面して異なる様式の建物が混在して建ち並び、二階が低い町家(厨子二階)や袖壁卯建など、特徴ある造りを見ることができる。平成8年(1996)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往年の繁栄を偲ぷ町並みが傑存されている。 〜案内説明板から〜 | 9:31 熊川陣屋跡 若狭の領主であった京極高次は、ここに領主が休憩するための施設とし茶屋を設けた。その後、熊川陣屋と名が改められ、小浜藩の町奉行が置かれた。廃藩により廃止されると、明治以降は小学校の敷地となった。 〜案内説明板から〜 | 9:31 陣屋跡横の休憩所、便所 |
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9:34 旧問屋・菱屋 勢馬家は屋号を「ひしや」と言い十数軒の問屋、脇問屋とともに街道の繁栄を支えた旧家。広い家屋敷にその面影を残す。最盛期には年間20万駄の荷物の荷接ぎ場として、その問屋場に馬借り、背負人が群がったという。また宿場町役人として藩の御用や町の自治にも貢献した。 〜案内説明板から〜 | 9:41 白石神社 熊川地区の氏神であり、往古、伊勢より勧請すといわれ、また若狭の乎入谷(おにゅう)〔遠敷谷〕より勧請す、とも記されていました。旧指定村者で、祭神は、彦火々出見尊、白鬚明神、小浜藩主酒井忠勝公、山の神が合祀されているということです。 5月3日に行われる祭礼では京都祇園祭を模した豪華な見送幕(県指定文化財)を具えた山車が巡行し、かつて熊川宿を賑わした京の華やかな文化を感じさせます。 | |
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9:44 御蔵道 江戸時代初期以降、熊川から小浜へ流れる北川を使った水運の開発が幾度かなされた。小浜から北川を遡って運ばれてきた藩米を、かって松木神社境内に所在した小浜藩の蔵屋敷に運ぶために使われた道です。 | 9:48 熊川城主沼田氏の供養塔 得法寺の墓地には、細川幽斎(藤孝)の妻麝香(じゃこう)の出自である、熊川城主沼田氏の供養塔と伝えられるものがあります。これは、室町時代中期頃に建てられたと考えられ、元は五重の層塔であったと推定されています。 | 9:49 蓮如上人 像 |
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9:50 家康腰掛けの松 元亀元年(1570)には、織田信長は秀吉と家康をも従え、越前朝倉義景を攻めるため、京都から熊川を通り敦賀へ向かいました。信長が熊川の松宮玄蕃(げんば)の所に宿泊したことが「信長公記(しんちょうこうき)」に書かれています。この際、徳川家康は得法寺(古くは徳法寺とも書かれた)に泊まったといわれ、このとき境内の松に腰を掛けたという謂れを持つ松の木が境内東隅にあり、「家康腰掛けの松」と呼ばれていました。しかしながら近年残念ながら枯死してしまいました。 | 9:52 得法寺 もともと天台宗の寺院であったのが、室町時代の文明7年(1475)、蓮如上人が越前吉崎から小浜・名田庄(なたしょう)を経て京都へ上る途中、若狭に約100日間滞在されたといわれ、ここ得法寺にも逗留されました。このとき、蓮如上人に帰依し、浄土真宗に改宗したと伝えられています。吉崎からの船中で書かれたことで「船路の名号」と言われる、六字の名号「南無阿弥陀仏」の掛軸が今も寺宝とされています。 | |
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9:55 松木神社 この若狭の義民、松木庄左衛門が祭られているのが松木神社。熊川宿の背後にある。旧小浜藩は近郊の年貢米を収納するために神社境内に12棟の米蔵を建て、約3万俵の米を貯蔵していた。ここより人馬により大津へ出荷していたという。 この神社下にある逸見勘兵衛家で生まれた伊藤竹之助は現在の伊藤忠商事二代目の社長で、故郷熊川のことを思い、松木神社義民館や熊川村役場、青年学校を建てた。その顕彰碑が松木神社参道口に立っている。 | 9:57 松木庄左衛門像 関ヶ原の戦いのあと若狭の領主となった京極高次は、領内の百姓に年貢の増徴と労役の提供を求めた。その後、領主が酒井忠勝になっても改められなかった。 苦しみにあえぐ百姓たちは年貢の引き下げを願ったが、全く聞き入れられなかった。そこで年貢の軽減を求めて立ち上がった上中町・新道村庄屋松本庄左衛門が直訴、慶安5年(1652)5月16日、悲願は聞き入れられたが、庄左衛門は、直訴の罪で処刑された。28歳の若さであった。 |
古墳、天徳寺
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11:15 十善の森古墳 全長68mの前方後円墳で、6世紀初めに造られた。後円部と前方部にそれぞれ違う形態の横穴式石室があります。周濠の一部には石室へ向かうための陸橋があることが確認されています。副葬品は、大陸からつながる海の道を通じて運ばれたとされる金銅製冠、履、鏡、馬具、玉などです。 | 11:28 瓜割の滝 旧若狭街道沿いの天徳寺境内奥の湧水から生ずる滝。周辺は「水の森」と呼ばれ、夏でもこんこんと湧き出し、旅人の渇きを潤してきました。また、古くから修験者の修行地として神聖な地として、不動明王像が祀られています。 | 11:40 天徳寺 高野山真言宗のお寺で、泰澄大師の開基と伝えられています。平安時代に村上天皇の勅願寺となり、その時の年号である「天徳」が名付けの由来と言われています。馬頭観世音は、1300年前の養老年間に泰澄大師が宝篋ケ山で彫ったと伝えられています。その後、天徳年間に現在の場所へ移されました。17年ごとに中御開帳を行っています。 その他、弘法大師が佐渡の石工に刻ませたとされ四国八十八ケ所めぐりと同じご利益があるといわれる「石仏四国八十八ケ所」や、大師堂があります。 |
2016/07/01 一日目
京都・八瀬比叡山口〜大原〜途中峠〜花折峠〜葛川〜朽木 42.0km
始点: 叡山電車・八瀬比叡山口駅 7:33 〜 終点: 朽木・グリーンパーク想い出の森 17:15 9時間32分
行き JR三田 4:58発→JR宝塚 阪急宝塚 5:5発→阪急十三6:04発→阪急・河原町 6:49着 ⇒⇒徒歩⇒⇒京阪三条7:08発→京阪・出町柳駅 7:12着 7:18発 →八瀬比叡山口駅 7:30着
旅費 JR 320円 阪急 530円 京阪 470円 合計1320円
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7:30 叡山電鉄・八瀬比叡山口駅 ここから今日の歩きの旅が始まる。 | 7:30 叡山ケーブルに向かう。 | 7:30 八瀬川に架かる橋から上流を望む。梅雨の長雨後だけに水量が豊富。 |
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7:33 叡山ケーブルの八瀬駅。 | 8:22 八瀬川は流れ下って高野川、鴨川、淀川と名を変えていく。いつの大雨の痕跡か。今の流れは清水だが、一雨で濁流に変わる。何処彼処に、杉林が谷ごと流された痕跡が見受けられた。 | 8:31 花尻の森。 5月4日の江文神社と5月5日の梅宮神社の春の祭礼の御旅所になっています。おつうの伝説では退治した大蛇の霊を鎮めるためにこの森に尻尾を埋葬したと伝えられていて、今もそれにまつわる行事が残っています。 また、薮椿が多く春には落椿の名所となっています。 〜案内説明板から〜 |
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8:31 花尻の森に祭られた社。 | 8:33 道端の道標。「寂光院、左へ18丁」とある。1丁は約109mだから18丁は約2kmさき。 | 8:51 三千院のまだ手前。今日の終点まであと34km。まだ歩き始めて1時間20分。先は長い。永い。 |
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8:55 梅宮神社 三千院の入り口に位置する。 | 9:08 呂川に架かる橋の袂で。綺麗な清流は比叡の山並みを源とし、下って大原川、高野川と名を変えていく。 | 9:10 三千院門跡 |
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9:21 往生極楽院。 中には阿弥陀三尊像がある。靴を袋に持って寺院内を歩いた後、下足に履き替えての散策。 | 9:22 三千院のパンフレットには必ずこの風景が。 苔が何時行っても美しい。 | 9:25 あじさい苑 丁度、あじさいの花も咲き揃い、ところどころに「紫陽花のトンネル」が出来ていた。 |
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9:26 紫陽花の大きな花弁が美しい。 | 9:50 実光院 | 9:51 勝林院 天台宗延暦寺の別院。 835年円仁が唐から声明を将来し、それを取り入れた天台声明の根本道場として創建された。 |
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10;24 大黒山北寺 普通のお寺と思っていたが、帰ってから検索で出てきた画像は危ない。 http://blogs.yahoo.co.jp/benpiwakirai/6032701.html | 11:42 花折峠の入口。 | 11:51 旧道か? きつい坂道が続く。杉の幹に巻いたPPテープは鹿に皮を捲って食べられないようにか?。 |
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11:59 花折峠。標高591m。仏用の花:シキミを折ったことからこの名がついた。 | 12:02 一帯の谷が流れ落ち、通行止めになっていた。 | 13:32 地主神社。 明王院の鎮守で859年に相応和尚の創立と伝えられて居る。思古淵大明神を祀る。現在の社殿は1502年に建てられた三間社春日造。県内では唯一の三間社春日造本殿として貴重である。 〜案内説明板から〜 |
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11:33 神社への石段。 | 11:34 地元神社の拝殿、幣殿、本殿の三棟が一直線に並ぶ。 | 11:34 地元神社の本殿 拝殿は新しいが、弊殿・本殿は室町時代の建築で重要文化財。特に本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津には珍しい建物です。前面の蟇股(かえるまた)といわれる部分には、牡丹・唐草・笹竜胆(ささりんどう)・蓮など12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という非常に凝ったものに仕上げられています。 〜滋賀県HPより〜 |
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右 明王谷林道 左 明王院 と書かれている道標。 | 赤い「三宝橋」を渡った所から石段が続き、その上が明堂院。 明王院は、 ・近畿36不動尊27番札所 ・琵琶湖108霊場湖西27名刹18番札所 と、案内板に書かれている。 | 13:39 明王院 平安時代の859年に円仁和尚の師弟である相応和尚が厳しい修行の末に生身の不動明王を感得し、その木像を安置したのが始まりと言われています。 |
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13:40 明王院 明王院は正しくは「阿都山葛川寺(かっせんじ)息障明王院」といいます。ちなみに36不動尊には「明光院」というお寺が3つあります。 |
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