西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、 和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。 < 順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
8番長谷寺から9番 興福寺 南円堂をめざして
2017/1/3 長谷寺⇒JR長柄駅 18.2km
14:09 天理教敷島大教会 桜井市 名前の通り本当に大きなものでした。 |
15:43 大和神社(おおやまとじんじゃ) 天理市新泉町星山 |
15:45 大和神社 戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。 |
2017/3/16 JR長柄駅 ⇒ 南円堂 13.4km
8:02 JR桜井線は単線。 |
8:28 市座神社 奈良県天理市丹波市町中之町355 |
8:29 市座神社の鳥居の横にある道路を覆う屋根掛け。一体何用で設けられたものだろうか。それが認められたのも不思議。 |
8:47 天理市は天理教の城下町。道の両側に延々と大きな建物が全て天理教関係の宿舎。 |
8:56 祝田神社。 |
9:26 和爾下神社。 |
10:49 |
11:00 元興寺。 元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。 (1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。 (2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。 (1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。 (2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。 |
11:04 左がんこうじ(元興寺) 右こうふくじ(興福寺) と記された石塔。 |
12:05 猿沢の池。50年ほど前の小学校の修学旅行で訪れたときはもっともっと濁った池だったと記憶していたが。今は案外きれいな池になっていた。 |
9番 興福寺 南円堂
御詠歌 春の日は 南円堂に かがやきて 三笠の山に 晴るるうす雲 |
南円堂への階段。 |
南円堂 西国三十三所観音霊場の第九番札所です。 弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。 興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。 創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。 堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、四天王(してんのう)像(いずれも国宝)が安置されます。西国三十三所観音霊場の第九番札所です。 弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。 興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。 創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。 堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、四天王(してんのう)像(いずれも国宝)が安置されます。 |
五重塔 国宝 古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標です。 天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標です。 天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。 |
東金堂 国宝 中金堂(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、西向きの建物です。神亀3年(726)に聖武(しょうむ)天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願ってお建てになりました。 創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃光(じょうるりこう)世界がこの世にあらわされていました。以来6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永22年(1415)に再建されました。 正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)、寄棟(よせむね)造り、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、前面を吹放(ふきはなし)とし、木割(きわり)が太く、奈良時代の雰囲気を伝えます。中金堂(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、西向きの建物です。神亀3年(726)に聖武(しょうむ)天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願ってお建てになりました。 創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃光(じょうるりこう)世界がこの世にあらわされていました。以来6度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永22年(1415)に再建されました。 正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)、寄棟(よせむね)造り、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、前面を吹放(ふきはなし)とし、木割(きわり)が太く、奈良時代の雰囲気を伝えます。 |
北円堂 国宝 日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明(げんめい)太上天皇と元正(げんしょう)天皇がお建てになりました。 伽藍(がらん)の中では西隅に位置しますが、ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等(ふひと)の霊をなぐさめる最良の場所です。 |
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