西国三十三所巡礼 

西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。

順不同でつないで歩いて行きます。

なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。

 


29番松尾寺から28番 成相山 成相寺をめざして


2017/4/24   松尾寺⇒JR東舞鶴駅   9.5km   

17:06 国道27号線に立つ案内石塔



2017/6/1   JR東舞鶴駅 ⇒ JR西舞鶴駅    7.9km   

スマホのGPSで行程をトレースしました。別タグで開きます。  
東舞鶴駅付近は空き地が目立つ。地域再開発とは言え、空き地が目立つここで高架工事は必要だったのか。政治家は税金を使って選挙区の開発をし、地元の土木業者を潤すことが自分の再選への近道と考え奔走している。国会議員であることを忘れているのではないか。
JR小浜線をたどっていたが、ここでは国道と平行して走る。



2017/4/25  JR西舞鶴駅⇒ 成相寺   31.9 km  

スマホのGPSで行程をトレースしました。別タグで開きます。  


7:58  国道175号線を西進してきた。由良川を渡る橋のたもとに、藤津神社。   
7:58 由良川に架かる橋。
8:29 府道45号線に入った。白髭神社。   白髭須大明王  の額が架かる。

白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。
8:53 府道45号線を舞鶴市下漆原まで来た。橋を渡りこれから川に沿って北上します。
9:33  由良ヶ岳
由良川源流である芦生(あしう)の京大演習林から、京都府の北部を流れる由良川は、宮津市と舞鶴市の境で大河となって日本海に注いでいる。由良ヶ岳は由良川の川口にそびえ、対岸の神崎からはどっしりと構えた双耳峰の山容を目の前に見せてくれる。北西方面の天ノ橋立の阿蘇海からは端整な鋭峰となり、丹後富士、宮津富士とも呼ばれている。
 江戸期には虚空蔵ヶ岳とも呼ばれた修験道の聖山であり、今も頂上に小さな祠が残っている。
9:57 宮津市に入った。府道にしては綺麗に整備されている。府道を歩いていて耳にする音は土木工事の音のみ。
10:15 宮津湾の海が見えてきた。
11:23 一色稲荷神社
一色氏は南北朝時代(1392年)に補任された一色光範を初代とし最後の当主一色義清(一色有義)がここで自刃し1582年に、室町幕府の四職の一角である名家がここで消えることになります。
一色義清の甥にあたると言われる一色義有は剛勇に優れ細川藤孝(幽斎)の丹後侵攻を弓木城で徹底抗戦をしたました。その後、和議が成立し、一色、細川の分割統治が始まり、細川家の姫が一色家に嫁ぎ姻戚関係が結ばれ暫くの間は平穏な時期が続きましたが、山崎の合戦で一色家は明智光秀側についたことが原因になり一色義有は宮津城にて謀殺されてしまいました。
吉原山城城主の叔父に当たる一色義清が家督を継ぎ、再興するが直ぐに細川家の追討軍により、攻め滅ぼされてしまいました。その最後の地がここに当たるそうです。
謀略によって滅んでしまった一色家の怨霊を恐れて鎮魂の意としてこの社が建立されたのでしょう。
12:05 小天橋(廻旋橋)   右の丸い橋台を中心にして90度回転する。左の橋台付近にある破断線で切り離される。

可動橋は、宮津湾(与謝海)と阿蘇海を連絡する天橋立運河に架かります。かつては久世戸の渡しと言われていました。
橋桁と水面との間が小さいため、船の通行時に橋桁の中央部分を90度回転します。その間、橋は通行不能になります。1923年に人力で動く橋が完成し、1957年から現在の電動式になりました。当初は、遊覧船などの大型船を通すために橋を回転させていましたが、その頻度が下がったため、2009年から船が通らないときも観光用に回転させるようになったそうです。
12:12 天橋立。 与謝野寛(鉄幹)・晶子ご夫妻歌碑。
      小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波     寛
      人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立             晶子
 
12:17 磯清水。
この井戸は宮津湾と阿蘇海に囲まれていますが、真水であることが有名です。
この磯清水を平安時代の和泉式部が「橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし」と詠んでいます。つまり少なくとも平安時代から海に囲まれた中で湧く不思議な水、そして名水として認められていたということに。確かに昔の人にとっては海の真ん中で湧く真水は神秘的な水として映ったに違いないでしょう。一説ではこの不思議な霊泉を祀るのが天橋立神社だったともされています。

ちなみに「磯清水」ですが、現在は地下水であることを理由に飲用は不可とされています。美味であると共に長寿の霊泉とされていただけに、ちょっと残念なところです。
1:18 天橋立神社
12:18 天橋立。 蕪村の句碑
             はし立や 松は月日の こぼれ種
12:24 芭蕉の句碑   
            一声の江に 横たふや ほととぎす
12:40 天橋立。  船越の松。大きく傾き、つっかい棒無しでは倒れてしまいそう。
12:51 元伊勢大神宮 籠(この)神社
籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。

真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
12:53 籠(この)神社
12:55 
籠(この)神社
大谷寺      真言宗の古刹。山号は天蓋山。籠神社の神宮寺として広大な寺域を誇り、かつては多くの子院を擁した。
大谷寺 本堂
13:05 ケーブルカーには乗らずに並行して走る登山道を行く。ケーブル終点にある笠松公園からはアスファルト道を歩いた。
13:13 傘松公園から見た天橋立の砂嘴。松並木が美しい。




28番 成相山 成相寺

御詠歌       波の音 松のひびきも 成相の 風ふきわたす 天の橋立
宗派         橋立真言宗
開基         真応上人
ご本尊        聖観世音菩薩
創建         慶雲元(704)年
所在地       〒629-2241 京都府宮津市成相寺339



山門
五重塔
鐘堂           「撞かずの鐘」と言いながらこちら側には撞き棒が設置してある。     
鎮守堂
本堂
鉄湯船
湯屋にて湯船として使用していたもので、直接入るのではなく湯釜で沸かした湯を入れ、かかり湯をするために用いられたと思われる。後に薬湯を沸かし、怪我や病気の人を治療したとも伝えられています。      〜案内板
巡礼道
撞かずの鐘        こちら側の開口には撞き棒がない。

 慶長14年(1609年)山主賢長は、新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、裕福そうな家の嫁が、子供は沢山居るが寺に寄付する金はない、と言って断った。鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の嫁も子供を抱えて見物に来ていたが、誤って子供を坩堝(るつぼ)の中に落としてしまった。出来上がった鐘をつくと、子供の泣き声、母を呼ぶ悲しい声が聞こえ、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って、以後、一切この鐘をつくのを止めたという。           「撞かずの鐘」にまつわる伝説。       〜案内板
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