西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。 順不同でつないで歩いて行きます。 なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。 |
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22番 補陀洛山総持寺をめざして
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行程をスマホのGPSでトレースしました。クリックすると別ウィンドウ(タグ)で地図が開きます。 |
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十輪寺(なりひら寺) 京都市西京区大原野小塩町481 十輪寺は嘉祥3(850)年、文徳天皇の后である染殿(そめどの)皇后(藤原明子:ふじわらのあきらけいこ)に世継ぎが生まれなかったため、伝教大師作で木像の延命(えんめい)地蔵菩薩を安置し、世継ぎ祈願を行ったのが始まりといわれています。めでたく皇子(後の清和天皇)が誕生したため、文徳天皇は延命地蔵菩薩をご本尊とし、ここは祈願所とされ、また藤原北家が信仰し、一族の菩提寺となりました。 染殿皇后は、延命地蔵菩薩のお腹に巻かれていた腹帯をご自身のお腹に巻き、無事に出産されたといわれています。このことから、「腹帯地蔵尊」とも呼ばれ、今日でも子授けや安産を願う方から篤く信仰されています。 〜 わかさ生活HP より |
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光明寺の総門 京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1 西山浄土宗の総本山光明寺は、長岡京市西山のふもと、粟生。宗祖円光大師法然上人が御歳43歳の時、日本で最初に念仏の産声を上げられた立教開宗の地です。法然上人が24歳の時、奈良へ学匠となるべき師を求めて叡山を降りられたとき、この粟生野の里、当時村役の高橋茂右衛門宅に一夜の宿をお借りになりました。その時、茂右衛門夫婦は、上人の真剣な求法のお気持ちと、広く大衆が救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いいたしました。 時は流れ承安五年(1175年)3月、ついに浄土宗を開かれた上人は20年間のお約束の通り、この粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたのです。 |
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光明寺総門を入って続く表参道 |
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光明寺 御影堂 |
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光明寺 御影堂 |
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光明寺 御影堂 |
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光明寺 もみじ参道 |
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離宮八幡宮 JR山崎駅前 離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社です。 貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされています。 その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とし離宮八幡宮が成立しました。しかし、離宮八幡宮の創建については、諸説あり、石清水八幡宮と同時に成立したとは考えらないという説や、離宮八幡宮は南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説もあります。 |
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2016/11/26 阪急・水無瀬駅⇒総持寺 11.0km
1JR島本駅前の島本町歴史文化資料館。 大阪府島本町 何処にもある民俗館の域を脱していない。少しだけ見たが、目新しいものはなかった。 |
一乗寺。ここにもあった一乗寺。 高槻市梶原2丁目 1427年に地元の住人が、京都の一条戻り橋のたもとで辻説法をしていた日親上人の話を聞き感激し、日親上人に請い建立されたと伝えられている。そのときに寺名も一乗寺と改称したという。 |
畑山神社。 高槻市梶原1丁目。 田中寺と隣り合わせ。 天児屋根命(あめのこやねのみこと)と菅原道真を祀る。明治元年に神仏分離令により、畑山神社と称するようにようになった。 |
田中(でんちゅう)寺。 高槻市梶原1丁目。 ガンや痔、ぜんそく、神経痛などの封じ寺として名高い日蓮宗のお寺。 |
JR高槻駅近くの関西大学ミューズキャンバス。 社会安全学部と一貫教育(初等、中等、高等)とがあるとか。 |
22番 補陀洛山総持寺
御詠歌 おしなべて 老いも若きも 総持寺の ほとけの誓い 頼まぬはなし |
山門。 総持寺ではこの山門が一番大きく立派。代表的な建物。 |
山門横の立派なお堂。 |
池の向こうには本堂。 |
お地蔵さんの奥に見えるのは閻魔(えんま)堂。 どういう関係で前後に位置して祀られているのか解らなかった。 |
荒神社。 |
包丁塚。 |
普悲観音堂。 |
薬師堂。 |
本堂。 御本尊は亀に乗った十一面観音像。 創建した藤原山蔭の父親が太宰府に赴任の途中、漁師が亀を捕まえているのを見て「今日は18日、観音様の縁日。その亀と自分の着物を交換してはもらえないか?」と交渉し、交換した亀を川に逃がした。その夜に、継母の企みにより藤原山蔭は川に落とされた。それを知った藤原山蔭の父親は普段から信仰している観音様に「どうか亡骸でも良いから息子に会わせて欲しいと」お願いをする。すると、助けた亀が自分の息子を乗せて現れた。それがきっかけで総持寺の観音様は亀に乗っているのだとか。 |
大師堂。 「弘法」の金色の表札が神々しく光る。 |
鐘撞。 鐘銘は開基・藤原山蔭の二男・公利が912年に納めた梵鐘に刻まれていた銘文を復刻。 |
山門の金剛力士像(仁王様)。 |
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