西国三十三所巡礼 

西国三十三所は約1300年の歴史を持つ日本最古の巡礼路です。その総距離は1000kmに及び、和歌山、大阪、兵庫、京都、奈良、滋賀、岐阜と近畿圏を包括するように伸びています。

順不同でつないで歩いて行きます。

なかなか踏破は難しそうですが、時間をかけてチャレンジします。

 


粉河寺から2番 紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)をめざして


2017/4/3   粉河寺⇒JR和歌山駅  23.9 km   




紀の川を渡る。それにしても、和歌山県では土木工事多かった。自民党の幹事長と産業通商大臣との出身県であることが大きく影響しているように思えてなら無い。
県道9号線のJR千旦(せんだ)駅近くの交差点に「松下幸之助生誕の地」の大きな案内板が立っています。パナソニック(株)の創業者、松下幸之助は明治27年現在の和歌山市祢宜(ねぎ)に生まれました。実家が松の大樹の下にあり松下の姓を名乗ったと伝えられています。
父の事業失敗により、幼くして丁稚奉公に出され、苦労を重ねたそうです。やがて大阪に出て頭角を現し、ついに大正7年松下電器製作所を創業し、現在のパナソニックの礎を築き上げました。

2017/7/31  JR和歌山駅 ⇒ 和歌の浦 散策 ⇒紀三井寺     15.4km  

和歌山ビッグホエール   国体道路沿いのアリーナ。面積3280u、最大8500人収容。
  名前の通り、鯨が潮を吹くように上空へ水を噴き上げる装置があるそうだが、洗濯物が濡れるとの苦情で使われていないとか。   
2015年の和歌山国体で整備された国道135号線の一部(和歌山駅から紀三井寺の区間)を「国体道路」と呼び、道路標識にも書いてある。
この国体道路をひたすら南下した。  
観海閣・妹背山
徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が慶安年間(1648〜1652)に木造の水上楼閣として妹背山(いもせやま)の海辺に建立したもので、ここから名草山にある紀三井寺を遥拝したと伝えられています。 現在の建物は昭和36年に第二室戸台風で流出後、コンクリートで再建されたものです。特に朝・夕の眺めが美しく時間が止まっているような気さえします。             市観光協会HPから             
観海閣・妹背山
玉津島神社
祭神       稚日女尊(わかひるめのみこと)     息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
          衣通姫尊(そとおりひめのみこと)     明光浦霊(あかのうらのみたま)
このように、古くから神様がおわす地として崇められてきた玉津島は、聖武天皇の詔(みことのり)によって保護されるようになりました。そして和歌の神・衣通姫尊が祀られたことにより、 都から玉津島詣が行われ、天皇御宸筆(しんぴつ)和歌などの奉納がなされてきました。玉津島への信仰は現在にも引き継がれ、多くの人々によって大切に護られて います。               市観光協会HPから
  玉津島神社に移設された「根上り松」           天然記念物
  紀州東照宮  
元和7年(1621)、頼宣が南海道(なんかいどう)の総鎮護(そうちんご)として創建された社殿は、「関西の日光」とも呼ばれ、権現(ごんげん)造りとなっています。
また、江戸初期の代表的な重要文化財建造物としても有名です。
漆塗・極彩色の精巧な彫刻、狩野(かのう)・土佐両派の絵による豪華さに目を奪われ、特に左甚五郎(ひだりじんごろう)作の彫刻や狩野探幽(かのうたんゆう)作のふすま絵は必見です。
鮮やかな色彩を目のあたりにすると、当時の時代が壮麗な絵巻物となって浮かんできます。               市観光協会HPから
  紀州東照宮    急峻な石段の奥に見えるのは楼門
  紀州東照宮   神輿舎(みこしや)
  紀州東照宮  楼門を本殿側から見る。
 紀州東照宮   唐門の奥に拝殿と本殿
和歌浦天満宮の鳥居
和歌浦天満宮
学問の神様である菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれています。建築にあたったのは紀州根来出身の平内吉政・政信親子。 後に政信は江戸幕府の作事方大棟梁になった当代屈指の工匠です。楼門は一間楼門として最大規模。本殿は国重要文化財で、内外部ともに美しい極彩色が施されています。            市観光協会HPから
  和歌浦天満宮 楼門     
急峻な石段。登るのも大変だが、降りるときは手摺りなしでは怖くて降りられないほど急な石段。
  和歌浦天満宮 前拝殿
  和歌浦天満宮 楼門前から和歌の浦を望む。関西電力・海南発電所の2本の煙突、石油精製コンビナートが見える。
蓬莱岩
不老橋
不老橋は、片男波松原にあった東照宮御旅所の移築に際して紀州藩10代藩主であった徳川治宝(橋が架けられた当時は13代藩主徳川慶福の治世中)の命により、嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成したアーチ型の石橋です。
この橋は、徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の時に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「お成り道」に架けられたものです。
橋台のアーチ部分については肥後熊本の石工集団の施工であり、勾欄部分については湯浅の石工石屋忠兵衛の製作と推定されている。
勾欄部分には、雲を文様化したレリーフがみられる。
江戸時代のアーチ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れています。                       市観光協会HPから
  鹽竈(しおがま)神社




2番 紀三井山金剛宝寺(紀三井寺)

御詠歌       ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
宗派         救世観音宗(総本山)
開基         為光上人
ご本尊        十一面観世音菩薩
創建         宝亀元(770)年
所在地       〒641-0012 和歌山県和歌山市紀三井寺1201


楼門              国指定重要文化財
室町時代・永正6年(1509)建立
三間一戸・入母屋造・本瓦葺き。建立以来たびたびの修理を受け、桃山時代の様式を残す。(高欄付きの縁をめぐらせた通路や和様三手先腰組)。欄間には、牡丹と菊の彫刻があざやか。金剛力士像を安置。
結縁厄除け坂。
そのいわれ。
その昔、紀の国屋文左衛門は、若き頃から孝心篤く、母を背負いてこの坂を登り、観音様へお詣りしました。途中草履の鼻緒が切れ、困っているところに玉津島神社の宮司の娘かよが通りかかり、 鼻緒をすげ替えたのが縁となって、二人は結ばれ、宮司の出資金によるみかん船で大儲けしたという、紀伊国屋文左衛門ゆかりの、この坂は結縁坂です。   
             〜案内板から〜
芭蕉の句碑  「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」
せっかく紀三井寺での花見を期待してきたのに、桜は既に散始めていたのを残念がって詠んだ。
応同樹                市指定文化財
病に応じて薬となると云われる樹で、その昔紀三井寺の開山した為光上人が竜宮へ説法に行かれ、龍神からお礼に戴いた七種の宝物の内の一つで、この木の葉を浮かべた水を飲んだり、煎じて飲んだり、或いは首に掛けて置くと病に応じて薬となると云われる霊木です。
災厄を代わりて受けてくれる「身代り大師」  
六角堂
江戸時代・寛延年間(1750頃)建立。初代・二代目雑賀弥左ェ門建立。西国三十三カ所御本尊をまつる
境内から新和歌浦方面を望む。
鐘楼        国指定重要文化財
安土桃山時代・天正16年(1588)建立。入母屋造・本瓦葺き・袴腰。(腰板張りの下層)。全体に軽快な感じで、鐘楼建造物中の白眉とされている。
幸福観音
大師堂
多宝塔                 国指定重要文化財
室町時代・文安6年(1449)建立。嘉吉元年(1441年)倒壊した等に替わって再建された。本瓦葺三間多宝塔。
下層は四本柱の方形、上層は十二本の柱を立て高欄をめぐらせた円形。室町中期様式・五智如来をまつる。
開山堂
お身代わり賓頭盧尊者
この像は、お詣りの皆様の心身の病を救い給う有り難い、なで仏です。昭和59年の春、少年の失火であわや本堂焼失の大火になるところお身代わりとなり焼身されました。 その後わが国の仏像修復の第一人者・西村公朝先生御監修のもと、京仏師・佐川定慶師のお手で修復されたものです。
本堂。     救世殿との額がかかっている。
本堂         県指定重要文化財
江戸時代・宝歴9年(1759)建立。入母屋造・正面唐破風と千鳥破風・本瓦葺き・九間四面・総欅造り
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